
つらい。
ネタバレします。
国際連盟総会。
日本全権の松岡洋右は最初「日本国の軍事行動には一片の非もありません」として「我が国民の大多数は今なお連盟の味方であると。これまでのようになお忠実に国際連盟に留まろうとしている」と主張していた。
が、英国からの妥協案「満洲国を国際管理の自治地域とし、顧問として日本人を用いる」を外務大臣内田康哉に送ると「満洲国を手放せと言うのか、私に死ねというのか」と返され松岡は苦しむことになる。
昭和8年1月
松岡は考えていた。「日本はかの日露戦争の結果において中国・満洲における様々な権益を勝ち取った。広々とした大地。豊かな鉱物資源。やはり満洲の権益は譲れない」
「いかにして連盟に留まり、いかにして満洲国の存在を国際社会に認めさせるか」
「満洲の南西部に位置する熱河省。その国境長城付近で目下中国軍の侵攻が顕著。陸軍部隊の熱河省に対する軍事行動の御裁可を」と申し立てた。
内田は「国を焦土にしても満洲国の権益は譲らない」と話していた。
これを西園寺公望は聞き及び嘲笑した。
総理大臣斎藤実は「熱河作戦の裁可を取り消してほしい」と参内した。「国際連盟の規約では勧告が出されるその時期に当事国の日本が新たな軍事行動を起こした場合、それは連盟加盟国への敵対行為とみなされます。このままだと日本は経済制裁を科せられる恐れが。目下、日本は恐慌のさなか。経済制裁を科せられれば日本の経済は国民の生活は致命的な打撃を」
天皇は衝撃を受けてしまう。自分が裁可した、してしまったことが国民を苦しめる原因となってしまうというのだ。
いったいこれ、どうしてこうなったのだ。
「何も知らずにいた天皇」が悪いというのか。
またも陸軍に騙されたというのか。
というか、こういうことって自分たちでもあるんだろうけどそれはまあ個人的な事、こんな多くの人命が関わることで「やっちまった」とは。
この後、裕仁は(慌てて)侍従武官長奈良武次に「熱河作戦に与えた裁可を取り消したい!」と伝えるが奈良は「一度天皇が裁可したものを取り消しなどもてのほか!」と言い放つ。「一度裁可したものを取り消すのは陸海軍統帥者である天皇陛下の権威を失墜させます」
鈴木貫太郎に聞いても「陛下が裁可の取り消し命令を出せば陸軍参謀長陸軍大臣の首が飛びまする。そしておそらく彼らは腹を切るでしょう」という。
奈良はなおも「軍人の中には陛下に対する猜疑心、反抗心が起こり、よって反乱がおきる可能性も」と続けた。
裕仁はもう何も言えなかった。
昭和8年(1933年)2月ジュネーブ
松岡洋右は連盟からの勧告案を受け取っていた。
「満洲の主権は中国に属する」
やはり関東軍による熱河作戦が状況を悪化した。
裕仁は再び奈良武次に申し伝える。「統帥最高命令により熱河作戦発動を中止にしたい」
これに奈良武次「陛下、わたくし、本日は耳垢のせいでお声がよく聞こえませぬ」と言って退出したのである。
ななななな、なにこれー。
もう全員切腹だ!せっぷく!

かわいそうすぎではないか。
孤独な王様ってこのことか。
あまりにも酷い。
このことから2月24日の国際連盟本部会議では日本に対する勧告案が可決され、これを受けた松岡は「この勧告の受諾を拒否する」と発言。
日本は国際連盟を脱退した。
昭和8年4月27日松岡洋右帰国。
東京駅では人々が大歓声で松岡を迎える。
松岡自身は「連盟に残っておきたかった。国民に陳謝します」と表明した。
秩父宮邸では雍仁が安藤輝三を迎え入れていた。
安藤は出されたとらやの羊羹を口にする。
「昔英国留学中にマッターホルンに挑んだ。周囲の反対を押し切っての登頂。頂上までの紆余曲折。山頂で食べた羊羹のうまかったこと。皇道派も統制派もマッターホルンに登ればいい。人間同士の争いごとのなんと些細な事か」
安藤は突如立ち上がる。「私、安藤輝三、殿下のお言葉に感激しております。殿下こそが私が目標とする〝親政”の天皇陛下でございます」
雍人は「安藤君、口が過ぎるぞ」と言った。
宮城、昭和8年12月23日午前6時39分
親王様誕生。
裕仁は前関東軍司令官、現侍従武官長本庄繁から祝いの言葉を受ける。
裕仁は「以前も訊いたが柳条湖すなわち満州事変は関東軍の陰謀と今もなお聞くが真相はどうなんだ」と尋ねた。
本庄は「関東軍ならびに関東軍司令官であった自分は謀略は絶対にやっておりませぬ」
裕仁は「そうか、それならよかった」とのみ答えた。

荒木貞夫は肺炎のため陸軍大臣を辞任。後任に腹心の眞崎甚三郎を推した。
しかし皇族参謀総長、閑院宮載仁親王と東条英機はこれに反対。東条は林銑十郎を推していた。
地方に追いやられていた永田は中央に戻ってくることとなった。軍務局長として。
永田は最初にやるべき仕事を軍務局の立て直し、つまり皇道派の一掃だとした。
眞崎甚三郎はくさっていた。陸軍大臣になりそこね教育総監をあてがわれてしまったのだ。
そこに「相澤三郎という男をご存知ですか」という奇妙な問いかけをされてしまう。
歩兵41聯隊付の中佐らしい。
その男が中耳炎で入院しているのだが危篤状態で「神のようにお慕い申している眞崎閣下が励ましてくれたなら危篤状態を脱せられる」と言ってるのだと言う。
わけわからん、と思いながらも(確かに)眞崎は言われるがままその男を見舞った。
相澤の妻はひれ伏して「忘年会の時に飲みすぎて池に落ちはずみで鼓膜を破り責任を感じて薬も飲まず食事もしません」というのだ。(ほんとにわけわからんな)
眞崎は相澤を見舞って「早う元気になって天皇陛下に奉公せねばな」と言うと涙を流して敬礼した。
裕仁は宮中のしきたりに抗おうとしていた。
親王は生まれてしばらくすれば臣下のもとで養育される習わしになっていた。
「幼くして家族と引き離されるその寂しさ、明仁には私と同じような思いはさせたくない」として私と良宮のもとで育てると決意したのだ。
陸軍大臣林銑十郎は眞崎甚三郎に教育総監辞任を示唆する。眞崎は「俺は動かん」と言い返す。
この時、以前眞崎が見舞った相澤が退院し礼を述べに来た。
総監室で眞崎は相澤に教育総監を辞任しろと言われたが裏で糸を引いている男がいる、と話し出す。
相澤は「それは、永田軍務局長」と答える。
こうして相澤は永田鉄山に殺意を抱くようになる。
昭和10年4月6日、東京駅。
裕仁は溥儀の初来日を出迎えた。
7月15日
眞崎甚三郎はまだ教育総監を辞めないとふんばっていた。
同日午後五時葉山御用邸で林銑十郎は天皇から眞崎への不満を聞く。
天皇は眞崎が参謀次長の時、関東軍の満洲全土の占領、熱河作戦、北支進出、天皇の反対を無視して作戦を進めたことを嫌っていたのだ。
侍従長鈴木貫太郎邸を日本青年教会の青木そして安藤輝三が訪問した。
「現在、陸軍の青年将校の一部で提唱されている革新製作について鈴木氏の御意見を伺いたい」という質問のためだった。
鈴木は「危険な香りがする議題だ。良いのかね、安藤君」と言う。
安藤は「是非お伺いしたく無理を言って同行させてもらいました」と答える。
話しの中で、鈴木は「きみは総理大臣を純真無垢な荒木大将でなければいかんと言って一人の軍人をどこまでもそうでなければいかんと主張することは天皇の大権を拘束することになりはしないか」と話した。
安藤は帰途につき鈴木侍従長は懐の深い大人物だと感じていた。
安藤君はここまでの周囲の関係性がなにか間違っていたのかもしれない。
さてここでまた大きな事件が起きる。
純真な安藤君が気がかりだ。