ネタバレします。
昭和12年1月25日午前1時40分宮城
これを聞いた石原莞爾は大いに嫌うが梅津美治郎は「軍部大臣現役武官制を使えばいいじゃないか」とあっけなく言う。軍部大臣は現役の軍人に限定する制度、要するに陸軍は宇垣内閣には陸軍大臣を出さない。陸軍大臣がいなければ組閣はできない。空中分解だという意味である。
宇垣は万策尽きた。
天皇は次いで林銑十郎に白羽の矢をあてる。だが林も結局おなじだったのである。
天皇は訊いた。「陸軍の横暴を抑えられるか」と。
近衛の返事は「ない、なんとか」であった。
侍従長の百武は「目下、陸軍は満洲から華北へと着々と進出を図っている模様です」と伝える。
抗日の気運が高まっているとか、という百武に裕仁は「陸軍に支那との妥協を促したい。交渉はむしろ先手を打って支那に希望を入れたらどうか、その前に御前会議を開こう」と話すが百武は「それはむしろ逆効果に」と答えた。
7月8日、はやまで静養中の裕仁に百武が訪れ「昨日夜明け前北支那盧溝橋で発砲事件が発生。日支両軍衝突」と告げる。「戦闘状態に入りました」
裕仁は「盧溝橋のこと、まさか陸軍の計画的行動ではないだろうな」とつぶやき聯隊長の名を問うた。
「たしか牟田口廉也大佐」
陸軍参謀総長閑院宮戴仁親王は参謀本部第一部長の石原莞爾を伴い「どうしても陛下に対支作戦の見通しに奏上したいことがある」と参内した。
石原は「北支における戦略は拡大すべきではない。対支作戦には限度がある」と言う。
裕仁が「ならばどうしたらいい」と訊ねると石原は「外交です」と答える。「今日本は対ソ連戦に備えるべき、満洲での軍備拡大が一番の大事。支那にかまっている時ではありません」
裕仁は「おかしな奴だ。満洲独立工作をしたのは石原莞爾だと聞くが」と言って「石原!外交交渉の急務だな」とした。
百武侍従長は近衛総理を訪れた。
「最悪、ソ連と中国とが同盟軍になる前に中国と外交交渉を行いたい」百武は総理に外務省主導で作成した支那との停戦条件、を提出した。さらに天皇が蒋介石との交渉を任せられる民間人はいないかと訊ねられている。
近衛は「いますよ」と答える。
それは元・上海総領事の船津辰一郎だった。
裕仁も「船津なら必ずやってくれる日本人唯一の男だ」という信頼度だった。
昭和12年8月7日
船津辰一郎は病で入院している妻を残し単身上海に降り立った。
まずは早急に国民党政府外交部局長の高宗武と会談を持つつもりであった。
高は「中国は脅かせば屈服する、対支一撃論。そのような安易な考えが日本陸軍内にある。中国人の民族的抵抗になみなみならぬものがあるという認識を日本の軍人は欠いている」と言う。
船津は総理から渡された封書を取り出し「これが日本からの停戦条件です」と差し出した。
「盧溝橋付近の非武装地帯の設立、増派日本軍の引き揚げ」
高は「この条件なら蒋介石も国民に顔が立つ。日本の要求に応じる」と答えた。
だがそれも束の間。
上海海軍特別陸戦隊中尉、大山勇夫は運転士に「虹橋(ホンチャオ)飛行場まで行ってくれ」と命じる。
そして車を走らせているところを中国保安隊員から射撃されたのである。
(この事件は「大山事件」として第二次上海事変のきっかけのひとつとなった。様々な国が異なる報道をしている)
支那駐屯歩兵第1聯隊では聯隊張牟田口廉也がこの報に怒りを発していた。
「この支那軍の蛮行は決して帝国日本の軍人として許すわけにはいかない。このまま南京まで侵攻する」
しかし裕仁は「なぜ海軍陸戦隊大山中尉が危険な虹橋飛行場に行ったのか、わざわざ殺される為にか」と考えあぐねていた。
そして陸軍大臣杉山元から「今回の一連の事件はまったくの支那側の計画的武力抗日であり、もはや疑いの余地なしであります。我が陸軍は上海に住む居留民の保護の為ただちに兵を」
裕仁もこうなっては外交にて収めるのは難しい、と考えた。
日中和平交渉のために病気の妻を置いて上海に来た船津にとってこの事態はあまりにも悔しいものであった。
昭和12年9月日比谷公会堂にて国民精神総動員演説会で近衛文麿は「我々全国民が己を空しうして国家の最高目的前に打って一丸となれば前途なんの恐るべきものもないのであります」と演説した。
米内は8月14・15・16日の〝渡洋爆撃”が世界を驚かせたと報告。
各基地から東シナ海を越えて上海を中心に中国大陸を爆撃したのである。
しかし裕仁が米内に訊いたのは「なぜ大山中尉は危険を承知で虹橋飛行場へ行ったのか」であった。
裕仁は大山が「中国兵に殺されれば日中和平など吹っ飛ぶ、そうすれば支那とは全面戦争だ。海軍にも莫大な軍事予算が入る」と犠牲になったと考えていたのだ。
しかし米内は「そのようなことは絶対にありません」と否定した。
裕仁は考えていた。
二・二六事件、「朕が股肱の老臣を殺戮」
青年将校たちの暴挙、その後に残ったものはなにか。
軍の横暴だ。
軍部が絶えず二・二六の再発をちらつかせ、ほとんどの体制、大臣の指名、予算に至るまで政治に口出しするようになった。
今、陸軍は強硬派が主流となっている。
その陸軍参謀本部では第三課長の武藤章と作戦部長の石原莞爾が言い争っていた。
北支に関して不拡大方針を唱える石原に「支那の暴虐は目に余るものがある」と返す武藤。
石原は「上海の在留邦人が危険なら全員引き上げればいい。引き上げ代は国持ちだ」と言い放つ。
そして石原は近衛総理に直談判に行く。
石原はまずは兵を山海関まで撤退し総理自ら南京へ飛び蒋介石と和平交渉をと進言するが近衛は「蒋介石と二人きりで?」と返すのみだった。
閣議において日支両国兵の衝突に端を発した今回の事変を「北支事変」から「支那事変」と呼称することに決定した。
昭和12年(1937年)11月上海が陥落
10月10日、上海派遣軍は上海周辺に構築された強固な防御陣地〝ゼークトライン”を攻撃。二日後各所で突破に成功。10月26日上海派遣軍は最大の目標であった要所大場鎮を攻略。11月5日、上海南方60キロメートルの杭州湾に面した金山衛に上陸。
現地軍は参謀本部が定めた制令洗を越え現在南京に向かい進軍を開始していた。
「拡大派の奴ら、支那一撃論などないぞ」と石原は考えていた。「どこまでも広がる荒野。中国は広大無辺だ。このままだと日本は泥沼にはまる」
が、南京総攻撃が始まっていた。
近衛文麿は宮中に大本営を設置すると聞き首相を辞めると言い出す。
昭和12年10月
石原莞爾、新京に赴任。
そこには東条英機が待っていた。
東条もまた「対支一撃論」を講じたが石原はあくまでも「日支の和平は必ず成功させる」と述べる。
そして中央にいる多田駿参謀次長に期待をかけていた。
6日後、蒋介石から「和平案を受諾して降伏する」との報が入る。
が南京はすでに陥落しており日本側は和平条件を加重すべきと言い出す。
石原が期待する多田駿は「私は和平案の加重には反対。南京陥落を以て即終戦すべし」と言い切った。
ところがである。
ここで天皇裕仁が「支那に大打撃を加えた上で公明正大なる和平に導きたい」と考えたのだ。
昭和13年1月11日
御前会議にて
支那側に誠意無しとして蒋介石国民政府との和平交渉は打ち切りと決まった。
ここで陸軍総帥部のTだ参謀次長が和平停止に反対ならば政府不信任となり内閣総辞職するしかない。
これを聞いた多田駿は「あなたたちはそれでも日本人ですか。明治大帝は日露戦争の檻仰せられた〝朕に辞職無し”どんな困難な時でも如何なる時でも。国家重大な時に政府の辞職とはなんぞや」
しかしここで海軍省米内は「先日の御前会議で畏れ多くも陛下の表情を見て確信した。陛下は支那と安易な妥協を望んでいない」と発言。
外務大臣の廣田弘毅も「支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明らか」
米内は廣田を信頼するとして参謀本部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任として政府総辞職とした。
近衛は参内し天皇に「蒋介石率いる国民政府との和平交渉を打ち切りと決定しました」と報告する。
後日侍従長百武三郎は英国新聞マンチェスターガーディアンを読み急ぎ陛下に伝える。
「南京に於いての非道なる行為」
またしても陸軍に苦しめられるのか、と裕仁は憂う。
裕仁は多田駿を呼び「日本兵が徐州へと進軍しているそうだな。夏まで行動を起こさないという方針だったはず」と問いかけた。
多田は「無念でございます。年内は一切の作戦を休止し国力の蓄積を」と話したが裕仁は「参謀本部と現地軍の意思疎通がうまくいってないのだな。誰の責任だ?」と問い詰める。
多田には〝孤掌不鳴”ひとつの手だけでは拍手はできない、という考えがあった。対支政策において共存共栄を基調としていた。
多田は天皇から嫌われていると感じた。
裕仁は「私は誰を信じたらいいのだ。誰の言葉を」と苦しんでいた。