1970年「少女フレンド」(1970年5月)
さてここから私が本格的に読み始めた作品になります。
この作品も何度も読み返しました。
ネタバレします。
これまでの短編もよく読んでみれば萩尾望都ならではの片鱗が見られる他にはない作品だが本作になるとはっきりと特別な作品だと思う。
表紙に描かれるビアンカの意志の強いまなざし、引き締めた口元、そしてそんなビアンカに憧れのような思いを抱いた少女クララの物語だ。
冒頭、50歳を過ぎたクララが登場する。
画家となったクララは何枚も同じ少女の絵を描いていると問いかけられる。
「この少女は誰ですか。まるで森の精のような」
「それは私の遠い日の友人ですよ」
12歳のクララの前に現れた二つ年下の少女ビアンカ。
本や絵が好きなクララと違いビアンカはひとりきりで森の中へ駆け出していく。
雨の日、この日くらいは一緒に絵を描いて遊びたいと思ったクララはビアンカの部屋を開ける。
そこでビアンカはひとり鏡の中の自分に話しかけていた。
「こんにちは、鏡の中のビアンカ。そちらのお天気は」「「鏡の中は外とあべこべよ。だからとても晴れてるの。一緒に森に来ない?」
そんなビアンカをクララは笑ってしまう。
ビアンカはクララの頬を叩いた。
クララは泣きながら「ママ」と呼んで出ていく。
物語のクライマックスに誘うために様々な布石を打つというけれどこのマンガ作品の一コマ一コマ描かれていることがすべて布石になっていてこれはもう読んでみなければわからない。
例えばひとりでやってきたビアンカの孤独な感じ、足元から伸びる黒い影が少女の心を感じさせるようだ。
年上のクララを見上げる目が好き通るようでビアンカのもろさを見せている。
とは言えこの二人の少女は萩尾望都その人をふたつに分けた存在なのだ。
絵を描くのが好きな少女クララ、子供の頃からの感動を描き続けている、というのは萩尾氏そのままだ。
両親が離婚した、というのではないがどうしても両親と上手く関係性を持てなかったという萩尾氏の苦悩はビアンカに受け継がれる。そしてその苦悩は踊りという表現となってそのまま森の中に吸い込まれてしまう。
クララは森がビアンカを吸い込んでしまったのは当然だ、私が森だったらやっぱりビアンカをどこにも行かせなかった、と訴えるのだ。
この「森が娘をどこにもやりたくないため吸い込んでしまう」というモチーフは後の「みつくにの娘」でも使われる。
萩尾氏の中の少女は社会と交わり切れないものでありそれは森の中で眠るしかないものなのだろう。
萩尾氏は本作がとても気に入っていると言われてもいてそのことを確信させられる。
少女は森の中にいてその少女は萩尾氏自身でありまたそれを描くのも萩尾望都でなければ描き切れないのだ。