1971年「少女コミック」夏の増刊(1971年6月)
萩尾望都氏は日常的な世界が描きにくい別世界の方が描きやすいという理由で現代日本物をほとんど描いていませんがその貴重な作品のひとつ『小夜の縫うゆかた』を読むともったいないなあと溜息です。
変な言い方ですがもし萩尾氏が日本ものを多く手掛けていたらもっと大きな人気になっていたはず!とはいえないでしょうか。
現在では男性ものも異国舞台が当たり前になりましたが以前は日本舞台が絶対の世界でした。外国ものを描いているのは「共感できない」というので疎外されていたものです。
(少年マンガがかつてほぼすべて日本舞台なのを見れば納得でしょう)
私は萩尾氏の異国舞台作品が大好きなのでなんの疑問も不満もありませんが本作を読むとあまりの素晴らしさに「萩尾望都氏がふたりいたら」と思ってしまう自分がいます。
(もちろんどちらか一つ選択せねばならないのならそのままでいいのですが)
ネタバレします。
とはいっても本作もこのテンポのよさ、詩を読むような台詞まわし緩急のつけかた。
やはり目を見張る。
おととし、小夜のお母ちゃんが事故で死んでしまった。毎年小夜とお兄ちゃんにゆかたを縫ってくれたお母ちゃんだった。
お父さんは「今年はゆかた、買おうか」と言ってくれたけど「おかあちゃんが縫わなけりゃ嫌だ」という言葉を飲み込む小夜。
でも14歳になった小夜は二年前お母ちゃんが選んでくれていた赤とんぼの柄のゆかたを自分で縫うのだ。
夏休みの宿題というのもあって友達ののんちゃんも一緒にゆかたを縫いにやってくる。
小夜の兄貴はのんちゃんのお姉さんにほの字で(死語か)妹にサービスしとこうとカルピスを運ぶ。(なんという可愛いお兄さんだ)
小夜は兄貴の友達畑さんにほのかに恋心。のんちゃんはしっかり両想いの彼氏がいる。
小夜はゆかたを縫いながら盆踊りを思い出す。
兄妹のゆかたを褒めてくれたおばあちゃん、その帰りに雨になって転んでしまい泥だらけになったこと。
一年生の時に不思議な女の子に会って「いいなあ」というので貸してあげたら
このエピソードが忘れられない人も多いのではなかろうか。
お母ちゃんにゆかたを縫ってもらうことはできないけど14歳になった小夜は自分でゆかたを縫うの、と物語は締めくくられる。
素晴らしい構成で初めて読んだ時心底感動した。
ところが。
後年、萩尾氏が両親との軋轢を公表しそう言われてみれば(この時気づく)作品の多くが親との不和を描いているのだ。
そういう思いを持って読むと本作、突然怖くなってくる。
小夜が母親の思い出を封じ込めるようにゆかたを縫い自分で歩みだすという物語は申し分ない。どんなに悲しんでも人間は前に進むものだしそれが若い人子供ならよりそうだろう。
ただそういわれてみれば母親と小夜の触れ合うようなぬくもりの描写はない。
なにかを知ってしまうと同じ作品が違うものに感じられる。
つまり「死んでしまう母親」というものほど萩尾氏にとって美しい存在はなかったのかもしれない、ということになるのだ。
それは『かわいそうなママ』にも感じられる。
『スター・レッド』でセイの実の両親がちらりとも(ほんとはちらっとだけ)出てこないという恐怖。セイは故郷の火星には怖ろしいほど恋焦がれるが両親のことはまったく思い出しもしないのだ。
この美しい短編の感動が後々にどこか怖ろしい感動になるとは思いもしないことだったのである。
そしてそんな萩尾望都の作品に改めて感動する。