1971年「別冊少女コミック」11月号(10月号に掲載となっていた不思議)
萩尾望都氏の代表作のひとつに数えられているのではないでしょうか。
構成の素晴らしさは確かなのですが今回読んでみて以前とは違う感情を持ちました。
ネタバレします。
少年ヨハンのモノローグから始まる。
萩尾氏のいつもの語り口で静かに物語の中へ誘われる。ここでは汽車の全景は描かれないのにガタンガタンという書き文字が聞こえてくるようだ。
小さな田舎の駅に着いたヨハンはそこで降りてモリッツ・クライン先生の名を知っていた馬車の男性に乗せて行ってもらうことになる。
到着するとヨハンはクライン先生と思しき男性に会うのだが何も言えない。
その時ピアノの音が聞こえてきて思わず「コンソレーション、リストですね」と告げる。クライン先生は「ああ、ルイーゼかね」と娘のボーイフレンドだったのかとヨハンを招き入れる。
そこには自分と同じ年齢ほどの少女がいた。
ヨハンは上手く弾けないでいるルイーゼに変わってピアノを弾く。
しばし聞き惚れていたルイーゼは「あなた、なにしに来たの」と問う。「クライン先生に会いに」と答えるヨハン。
ルイーゼは驚いて馬で走っていこうとしている先生を呼び止めるが先生はそのまま行ってしまう。
「どうしたの」と問いかけるママにわけを話しルイーゼはヨハンにお茶を淹れてあげるのだ。
ルイーゼに「名前は?」と聞かれヨハンは「アントン」と嘘をつく。
しかしルイーゼは目ざとくスカーフのイニシャルが「J」なのを見つけカバンに書かれた名前を読もうとした。
とっさにヨハンがカバンを取り上げたために中身が落ちてしまう。
その中には一枚の写真があってもっと幼い時のヨハンとママ、そしてその後ろにモリッツ・クラインの姿があった。
ヨハンはクラインの以前の息子だったのだ。
ここまでは文句なく美しい演出だと今でも思える。
だが、ルイーゼが心優しくヨハンに自分とママがヨハンからパパを取り上げてしまったと謝り、ヨハンがクライン先生を「はじめは憎んだけど本を読んでなんて暖かい言葉で語りかけるのだろう。大きな人だ」と考えるくだりには奇妙な違和感を感じてしまう。
もしかしたら最初から感じていたようにも思えるのだが年月を経て改めて読みやはりこのくだりは奇妙としか思えない。
もしかしたら萩尾望都は人間の中の反抗や恨み復讐を描くのは際立って上手いが人を赦す話は描けないのかもしれない。
例えば『残酷な神が支配する』でも父と息子(本作とちょうど逆のような形で義父と息子になるが)の関係で父親が息子に性虐待を行い息子はその過去からどんなに足搔いても抜け出すことも許すこともできない、という話が延々と描かれていく。
そこでもこの逆の立ち位置にいるルイーゼ=イアンもまた簡単に関係性を持つことはなく激しい反感を最初に抱きながら次第にのめりこんでいってしまうという構成になっている。
そう考えれば本作『秋の旅』は萩尾望都の父と息子の物語を描くためのひとつの習作だったともいえる。失敗作としての習作の経験ではないか。
罪を簡単に許すことは忘れることはできないのである。
そしてそこにこそ深い物語が生まれてくる。
ヨハンの人生はもう終わったようにさえ見える。
本当はこの許しを人生をかけてするべきだったのかもしれない。
そして『残酷な神は支配する』ではまさにジェルミは人生をかけて「罪と罰と赦し」を見つめていくのだ。