1972年「別冊少女コミック」1月号
多くの作家は、そして優れた作家ほど同じ話を繰り返して表現するような気がします。
萩尾望都もその一人かもしれません。
彼女の作品は疎外された主人公の物語。
疎外するのは社会であり主人公の親・家族なのです。
ネタバレします。
この『あそび玉』の原稿が紛失してしまった、話は今はもう有名なのだろう。まるでこの物語そのもののようにどこかへ飛んで行ってしまったのだろうか。
いやいや、漫画原稿の紛失問題かなりある。
特に以前は管理が甘かったとしか思えない。このマンガが読めなかったかもしれないと思うとその怒りをどこへぶつけていいかわからない。
しかもそのせいでいつものシャープな描線がボケボケなのである。
その怒りを抑えつつせめて読めただけでも幸福だと噛みしめながら読む。
少年ティモシーはある日自分が「あそび玉」を自由に動かせることに気づく。
「あそび玉」というのは単純なこどもたちの遊びでいわゆるビー玉のような玉を指ではじいてあてる遊びなのだ。
重心がずれている玉なので思わぬ動きをするためにストライクを取るのは20回に1回のその遊びをティモシーは連続19回ストライクにしたのだ。
何も知らないティモシーは自分の能力を見せびらかし自慢する。
両親はそれを知って嘆き悲しみ、学校の教師はそ知らぬふりをして中央指令室に連絡した。
ティモシーに忠告してくれる者もいたがすでに遅くティモシーは処刑のためにつかまってしまう。
そして萩尾氏らしいラストがやってくる。
「処刑」とは。
単純にティモシーを殺すことではなく「地球へ送る」ことだった。
萩尾望都は幾度も、というかほぼすべてと言っていいほど「居場所のない主人公」の話を描くがそのラストは「死」「滅亡」ではなく自分の住まう場所を見つけ出す。
そのために他の作家にはない楽天的明るさを感じさせる。
私はつい先日まで横山光輝マンガ作品読破をやっていたので(まだまだ道半ばなんだよなあ)光輝SF(というかすべてだが)が悲劇的なのに比べ萩尾SFの楽観に世代の違いを感じてしまう。
子供時代を戦時中に過ごした横山光輝氏の絶望と復興していく時期を過ごした萩尾望都の違いである。(公害問題はあれど)
その後の世代はまた違う苦悩が襲ってくるわけだが萩尾氏から私たち世代までは比較的幸福な時代であったのではなかろうか。(あくまで比較的に)
萩尾SFは本編はもとより『11人いる!』『スター・レッド』『マージナル』『バルバラ異界』と希望が見える終わりになっている。
私たちには生きる意味がある、生きる場所がある、という終わり方なのだ。