ガエル記

散策

『ポーの一族』「ポーの一族」〈第一・二・三・四話〉1880年ごろ 萩尾望都

1972年「別冊少女コミック」9月号 - 12月号

この4話めが私の萩尾望都初遭遇です。

いきなり4話目、打ちのめされました。

ただしどうもリアルタイムではなかった気もします。

 

 

ネタバレします。

 

 

というわけで私は本作(4話目)が初体験だったので逆に驚かなかったのだけどずっと萩尾望都マンガを読んできた人、編集者も含む、は驚嘆したということはないのだろうか。

今回萩尾望都の軌跡を追いかけてきて思うのだが、この前の作品『毛糸玉にじゃれないで』からのこれというのは物凄い変化だ。

むろんこの間に先日あげた三作があるのだけどこの三作を描くうちにここまで激しい上達というのか成長というのかいわばレベルアップをしてしまった。若い時期だからこその突然の爆発的変化ということになるのだろうか。

側で観ていた編集者などは震えたのではないかと考えてしまう。

上にあげた扉絵のエドガーとメリーベルの表情など神がかっているとしか言えないではないか。

今となって観れば描線、描写、演出などまだ稚拙さがあるのだがこの若さゆえのエロチックな線は後にはもう取り戻せないものとなる。

これは萩尾氏だけではなくすべてのマンガ家に当てはまる不思議なというのか当然の現象なので仕方ない。

なぜ皆若い時にあれだけぞくっとする描線を描きそして枯れ果ててしまうのか、それとも一時期だけの現象ゆえに貴重なのか。これは読者のほうも誰しも感じるものだというのもおもしろい。

マンガ家、というかすべてのクリエイターなのだろう、一時期にとんでもない魅力を発散して輝くのである。

それで終わってしまう人もいるし、というかこちらがほとんどか。

その後もさらに素晴らしい作品を描く人も稀にいるが萩尾氏はそのひとりなのだ。

 

(例えば手塚治虫は初期作品が一番という人、『ブラックジャック』辺りがいいという人、むしろ後期が好きな人と分かれそうだ)

 

萩尾望都のこの頃『ポーの一族』『トーマの心臓』が最高峰と評する人たちもいて私はそうまで思ってはいないが、この頃の絵柄と表現にたまらない魅力はあることはリアルタイム観察者としても感じざるを得ない。

当時どんなにこの作品に惹かれ何度読み返したかわからない。

 

若さは攻撃的でもある。

ポーの一族』の中でも本作が最も少年マンガに近い闘争編となっている。

少年マンガの方を好んでいた私にも共感しやすかったのだ。

 

さて本作でエドガーは永遠の共犯者といえるアランと出会う。

そもそもエドガー・アラン・ポーなのだから彼無しではあり得ない。

そしてここでもやはりアランが家族の中のはみ出し者であり居場所がないことが示される。

彼もまた自分が存在できる道を選択しエドガーについていくのだ。

(後にエドガーも家族に捨てられた子どもとして紹介される)

 

若さは激しい悲しみと憤りも持っている。