作者名は原作・作画に分けず共著という形であるということです。
最近、幕末から明治そして昭和初期まで、つまり日本近代史に凝っています。
ところがその辺が舞台のマンガ作品は極端に少なく、且つ興味が抱けるものとなればますます限られてきます。
その中で本作は非常に気になる作品です。
谷口ジロー氏作品自体初めてなのですがこれから楽しく読んでいこうと思います。
ネタバレします。
まずは読前情報として、この作品は「この人とこの人がこの時点でもしも出会っていたら」という仮定を織り交ぜる手法であるらしい。主人公夏目漱石をはじめ多くの実在の文豪や有名人物が登場するが架空の人物も同様に活躍しているらしいので作品のどこまでが事実でどこが創作なのか、というより実在した人物の名を使った創作と思うべきなのだろう。
第一章 漱石先生麦酒酔余の行状について
建て込んだ家々の描写が美しい。
「新しい小説を書いてみようと思っているんだ」と漱石は自宅の縁側で足の爪を切りながら家に集まってくる若者たちに語りかけている。
「ぼくにはこの国がどこに行こうとしているのか、とんとわからない。新時代新時代と浮かれる軽佻浮薄の輩を多少からかってみたくなった」
そして漱石は日本人が西洋を真似たってそうはいかない、そのうち日本は張り子の虎みたいになっちまうのが関の山、と続ける。
漱石宅に集まった若者たちは十八から三十までの男たちで以前銀座の政宗ホールで酒を飲み騒いで出会ったのである。
日露戦争前夜頃からビールが都会人に流行し各所にビヤホールが誕生したという。
そのビヤホールで酒に弱い日本人がビールを飲み飲み論じ合いケンカが始まるのだ。
漱石はそんな酔客の論争を聞きながら悪酔いしていくのであった。
ビヤホールで大暴れした漱石と四人は築地警察留置場で昏々と眠り酔いも醒め果てた漱石は責任を感じて四人の身元引受をしビヤホールに器物破損代金四十円を払った。
それ以来四人の青年は漱石の家をたびたび訪れるようになったのだ。
こうして漱石は新しい小説『坊ちゃん」を構想しその端緒を得る。
第二章 『坊ちゃん』に対する漱石の初期構想
この前年漱石宅に一匹の猫が入り込んできた。漱石の妻鏡子は何度も追い出そうとしたが執拗だった。
漱石はロンドンで神経症を患い当時極めて不安定な心理状態だったがどういう気まぐれか楚の黒猫を見て「おいてやればいいじゃないか」と言ったのである。
そして漱石は集まった青年たちに乞われるままに新作小説の内容を語って聞かせるのであった。
漱石は職場である帝国大学文科大学までの二キロ足らずを徒歩で通っていた。家では和服だが外出には洋服を着用し唐草模様の風呂敷包みを小脇に抱えやや前かがみに歩いた。
漱石は常に他人に監視されているという妄想と幻想に苦しんでいた。小説を書くことはそれからの逃避でもあり治療でもあった。
漱石の病は近代日本ではじめて自我に目覚めた日本人の悩み。あるいは西欧を憎みつつ西欧を学ばざるを得なかった日本知識人のジレンマとまさに同根であった。
第三章 明治三十八年秋の日本
漱石は文科大学の授業の合間、よく無名池に行き煙草を吸いながら小説の筋立てを構想し楽しんだ。
赤シャツとあだ名したお傭い外人教師を想像した。
漱石はイギリスに留学したが西欧嫌いであった。
その空想の中で主人公は背の高い外国人教師に対し「我が国は泣く泣くあなたがたの文明を学ばねばならんのです。そして泣く泣くあなたのような西洋の食い詰め者にお傭い外人として高い給金を払わねばならないのです」と言わせ鬱憤を晴らしていた。
しかしこの空想をいつもの客人、堀紫郎に語ったところ彼は「多少思うところはあります」と答えたのだ。
それはラフカディオ・ハーンに関する思い出だった。
第四章 漱石の陰画
堀紫郎は架空の人物だ。会津藩出身の侠客で豪傑である。
彼の話から斗南藩を出奔し博奕と喧嘩以外には用事がないこと、そして坪内逍遥とラフカディオ・ハーンの講義を趣味で聞いていたと知る。(この斗南藩というのも気にかかるところだ)
堀はラフカディオ・ハーンの話を始める。
ハーンは帝国大学文科大学で教えていたのだがつまりは夏目漱石が帰国し帝国大学文科大学の講義をするためにハーンの席は奪われたのである。
ハーンを慕う人々による反対運動も起こったがハーンは「お心だけいただきます」と言ってそれを止めた。
その後狭心症の発作を起こし亡くなってしまったのだ。
堀は「坊ちゃんにハーンさんみたいな行く当てもない外国人をいじめて得意になって欲しくないです」と語ったのである。
第五章 明治の群像
ここで堀が太田仲三郎が稽古する道場を訪ねる。太田は来春の椿山杯の賞金二百円を狙っていた。
私が気になるのは会津藩出身の堀氏なのだがここでも彼は長岡藩の柔道家に共感をする。十八歳と若い太田は「この新時代にそれはないだろ」と興味を示さないが堀は「叛骨と恨みの灯は消せない」という。
現在私が一番気になっているのがこの「官軍と賊軍」のことなのだ。折しも映画が製作公開されていて気になるところだ。いつか観られる日もあるだろう。
さて一方の漱石は雪の中、森鴎外に出会っていた。(二人には奇妙な縁があるらしいがこれはいくらなんでも創作だろう)
そして二人は目の前で平塚らいてうが森田米松の家を訪ねて声をかける場面に出会う。
(い、いくらなんでも)
さて今日はここまでにするがマンガの内容ではないが私は夏目漱石の小説を最近になって続けざまに幾つか読み今頃になって「物凄い作家だ」と驚嘆しまくっている。
(いくらなんでも遅すぎるが)
かつて高校生のみぎり『吾輩は猫である』を読んで腹をよじり声を出して笑うほど面白かったのだがそれ以外の作品はあまり判らずそのままになっていた。
『我が猫』は今でも面白いしまずます面白い。
しかしたまたま猫が家に入り込んできたせいとはいえ猫を擬人化する手法なんてまったく今現在の感覚ではないか。特にマンガ的である。
と思っていたら他の小説もまた然りなのである。いかにもマンガ家がパクりたくなる手法があれこれと散見されるのだ。
(行きがかりで女性とベッドインする羽目になるとか)
夏目漱石という人は非常にマンガ的な人だったのだろうか。
そういえばお孫さんがマンガ家夏目房之介さんなのだから外れてもないだろう。
夏目漱石氏が今いたら人気マンガ家だったのかもしれない。