続きます。
ネタバレします。
第六章 マドンナと清
「坊ちゃん」を思い出し、そうかーとなった。
しかし清は印象深いがマドンナのことはさっぱり覚えていない。
坊ちゃんは清から物凄く褒められおだてられて大きくなった。すごく幸福な少年なのだ。
誰もが自分にとっての清を欲しいだろうと思う。が、清は日本における旧時代の女性だったのか。
小説として坊ちゃんは最終的に清を選ぶ。
清と一緒に暮らすのだと願う。しかし清と暮らせたのはごくわずかの間で彼女は死んでしまうのだ。
坊ちゃんは清のことは「婆さん」と呼んでいるから恋する相手ではなかったのだが一緒に暮らしたいと願う相手はその婆さんである清だった。
しかしマドンナの事については何も願っていない。
日本男性が欲しいのはマドンナじゃなくて清なのだろう。
第七章 風蕭蕭として墨水寒し
山縣有朋、六十三歳(まだまだ生きますからねこのかた)下手の横好きながら錚々たる歌人を招いて常盤会と称した歌会を開く。
伊藤佐千夫の顔がすごい。この時詠んだ「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いに興る」には感じ入りました。
歌会、足が痺れそうだけどなかなかいい感じだ。
数年後、彼は伊藤博文に銃弾を撃ち込む志士である。
そして漱石が落とした本を拾い集めてくれた若い陸軍少尉の名を東條英機といった。
(これはいくらなんでも創作のはず)
第八章 もうひとりの『坊っちゃん』
その安重根の物語である。
もうひとりの『坊っちゃん』で安重根というのはどういうことなのか、と私はマヌケに考えここで以前観て記事にもした大森立嗣『ぼっちゃん』を思い出す。
といってもこの記事あまり役に立たないのではないか。
というのはこの時も「なぜぼっちゃんなの?」と考えていたからだ。
ここで慌てて答えを探りまわった。
そもそも『坊っちゃん』という小説は世間知らずで単純な若者が正義の行動をしたつもりで暴力をふるい結局は敗けてしまう、という題材を描いたものなのだと今頃になって気づく。
それを把握せずにいたということ自体坊っちゃんすぎた。
ぜめて映画『ぼっちゃん』を見た時に把握しろよ自分。
第九章 春風一陣
明治はまた女性が目覚める時代でもあった。
『坊っちゃん』と同じくこちらも現代の目から見れば気恥ずかしいものになってしまうがそれまで抑圧されてきた女性が立ち上がり活動するためには自由恋愛という気風は必要だったのだろう。
しかし150年経った現在でも女性の、いや男性もまた苦悩し続けているとしかいえない。
苦悩しない日が来るとは思えないともいえるけど。
第十章 小説家漱石の誕生
『坊っちゃん』の構想を終えた漱石はここから一気呵成、10日たらずで作品を書き上げたという。
書き込みも消しもほとんどなく反故は一枚しか出さなかったというから乗りに乗った執筆だったのだろう。
漱石のこの執筆および「今の仕事をやめ小説のみに専業するかの思案」と若き太田仲三郎の柔道試合を重ねて構築されていく。
第十一章 明治三十九年の桜
漱石はつぶやく。
「所詮、坊っちゃんは勝てんのだ、時代というものに敗北するのだ」
赤シャツと野だいこは日本そのものを牛耳り続ける。坊っちゃんも山嵐も敗れたのだ。
しかし坊っちゃんは清のもとに帰る。それは反近代の精神のありかだった。
さて読者が坊っちゃんに対し共感を持つのか反感を持つのか、どちらか一方ということは果たしてあるのだろうか。
「坊っちゃん」に複雑な思いを持ってしまうからこそ読み継がれているのだろう。