さて続きです。
ネタバレします。
(参)
彰義隊はすでに三千名を越え存在そのものが巨大な反政府勢力とみなされていたが、彼らには新政府を倒し幕府の再建を謀るという所思はなくしいて言えば「義憤」が彼らの原動力にすぎなかった。
しかし数度の解放勧告を拒否するうち、初志とかけ離れた軍事的組織へと変貌していく。
ここで悌二郎は秋津極の除隊を頼むつもりだったが逆に入隊したまえと誘われてしまう。
そう言ったのは森篤之進、二十四歳。体内穏健派の川村敬三の懐刀である。
川村らは戦争回避のために派遣されていた。主戦論を持つ強硬派を危ぶんでいた。
福原悌二郎のような論客を欲していたのだ。森は悌二郎に入隊して内側から押さえてほしいと願った。
占領下の江戸は治安が劣悪化し白昼から強盗殺人の横行する有様で昼夜交代で巡察する彰義隊の出現は市民に歓迎された。
その巡回から秋津そして入隊していた吉森柾之助が他の隊士らと戻ってきた。
森篤之進と彰義隊隊士たちそして秋津・柾之助・悌二郎らは料理屋で夕食をともにして論じ合うことになる。
穏健派の森の下にいるとはいえ若者たちは秋津はじめ血気盛んであった。次第に語気が熱くなっていく。
そこで秋津が言い放った「薩長の奸賊ども」という言葉を別室で漏れ聞いた官軍の兵士が怒鳴りこんできた。
彰義隊の若き隊士たちはこれに立ち向かう。刀を抜き秋津の掛け声で一斉に斬りかかった。
官兵の一人が絶命し他の三人にも傷を負わせた。
が、この騒ぎで秋津極は料理屋の階段から落ち気を失ってしまう。
森篤之進は隊士たちを帰らせ秋津は店の別室で休ませ女将が医師を頼んだ。悌二郎は秋津に付き添った。
女将の姪っ子の「かな」という娘が世話をしてくれた。
やがて目が覚めた秋津は自分の不甲斐なさに恥じ入った。
慶応四年、四月二十九日政府軍と攻略戦を続けていた大鳥圭介は会津へ敗退。同年四月四日。
長州藩大村益次郎は江戸到着。彼は官軍の武力政策の示威として彰義隊掃討を提案する。
(四)
毎日のように官兵と隊士の衝突殺傷が起こる。
彰義隊四人幹部のひとり川村敬三は隊を案じていた。
三河守より早々に身を引くよう御達しがあった。
隊のパトロンである覚王院義観が突如抗戦を主張。彼は輪王寺宮(北白川宮)を擁して必ず幕府を挽回してみせると豪語し激しく隊士を扇動していた。
吉森柾之助は実家にも養子先にも居場所がなく彰義隊の中に安堵を見ていた。
秋津極は弟撰から「御所の惨状を見ました。徳川家が皇室に対する忠義の足りなさを知りました。徳川がこうなったのは当然の罰です」と言われ弟を激しく打ち「新政府に仕官して秋津を二心の家にするがよい」と言い捨て去っていく。
森篤之進は料理屋の女将と酒を飲んでいたところ、彰義隊八番隊の隊士から斬りつけられた。
じっくりとした進み方だが私自身が彰義隊をよくわかっておらず急がれると飲み込めないのでちょうどいい。
バトルアクションマンガを見慣れた目には杉浦氏のそれが却って新鮮でもある。