ガエル記

散策

『陽だまりの樹』手塚治虫 十巻「桑海の章」

ネタバレします。

 

緒方洪庵は慣れ親しんだ大坂適塾を出て江戸城奥医師そして医学所頭取となるため江戸に住むこととなる。

これは体の弱い洪庵にはむしろ有難迷惑であったらしい。

特に大奥での仕事は神経の疲れるものであった。

 

さて緒方洪庵を通して良庵改め良仙は陸軍歩兵組付医師となる。

つまり伊武谷万二郎の隊の掛医師になるのである。

だが良仙は気が進まずお紺の店に隠れて時が過ぎ去り話が立ち消えになるのを待っていた。

品川で堂々たる豊屋の女将として活躍するお紺は今度は歩兵組屯所造成の材木調達を一手に引き受けるといい大仕事を手掛けようとしていた。

だが、競争相手である多磨屋の若旦那から「入れ札の時に尻の刺青を証拠にかつてお紺は夜鷹をしていたとばらしてやる。それが嫌なら引っ込んでいろ」と脅迫されてしまう。

それを聞いた良仙は鮮やかに有弁植皮術を成功させお紺の刺青を消し去った。

多磨屋の若旦那はこれを恨み丑久保陶兵衛を雇ってお紺を殺そうと考えた。

 

そうした間に良仙の恩師、緒方洪庵が頓死してしまう。

良仙は激しく嘆き生前に頼まれていた陸軍歩兵組付医師を引き受けると約束した。

お紺のいる品川の沖に泊まって脅し続けている異国船、そして海を狙う砲台やら鉄砲隊やら逃げ惑う町民を見てこの日本は今や危機なのだとひしひしと感じてきたのである。

この決意は平凡な町医者の一生を変えてしまう。

洪庵先生の葬式に来ていた福沢諭吉はイギリスやフランスを相手に戦争しようなんてのは狂気の沙汰と言い切った。

「おれは新しい日本をしょって立つ若い人材を育てる学問塾を作る」

 

お紺の集めた材木で江戸三か所の歩兵組屯所は今、その姿を江戸市民の前に現わそうとしていた。

その工事中現場でお紺はジャパン・ポンチという絵草子の版元ワーグマン氏を案内していた。

それを見た伊武谷万二郎は「ここは異国人禁制の場」と言って追い出そうとする。それは異国人の身辺が危険だからでもあった。

そしてその通り、お紺とワーグマンの前に丑久保が現れる。

丑久保の目的はお紺だったが攘夷の彼はワーグマンも殺そうとしたかもしれない。

しかしそれより前に万二郎が歩兵隊を伴い丑久保を銃撃させた。

丑久保は重傷のまま多磨屋の若旦那の家まで歩き若旦那の首を斬り落とした。

 

攘夷派の楠音次郎は「真忠組」を名乗り大村屋旅館を接収し本拠地として豪商や豪農から金品を強請しては貧民に配るという「世直し」を行っていた。

武士は楠ら数名で他は無宿もの農民漁民町民もいた。

伊武谷万二郎はこの真忠組の征伐を命じられる。

万二郎は歩兵組に初の戦いを告げるが相手が同じ農民たちが加わる義賊とも言えることを聞き反発した。

が、そこに良仙が医師として赴任してきたといってもめている間に元農民の歩兵組らは「全員真忠組と戦う」と整列したのである。

 

万二郎そして医師として良仙は歩兵組を行進させ東金に向かう。

その途中で兵たちが一人の娘をからかっているのを𠮟りつける。

万二郎はその娘を見て好意を持ってしまう。

が、その娘は楠音次郎の妹・綾でスパイとして使われていたのである。

戻ってきた綾は真忠組が危険にさらされていると告げる。

音次郎は再び綾を使って「いつ攻撃するつもりか」を調べさせた。

 

が、綾はすぐに捕らえられてしまう。

万二郎は早朝の攻撃を仕掛けた。

そこで父の仇でもある楠音次郎に出くわし一対一の果し合いとなる。

万二郎は楠を討ち取るがその際に顔を斬られ倒れる。

そこへ真忠組に入っていた平助が現れ万二郎を良仙のもとへ送り届けた。

平助は万二郎の言葉に従って逃げ延びた。

 

万二郎の歩兵組の働きで幕府は正式に陸軍二十万人の徴兵にふみきる。

伊武谷万二郎は今や大手門麹町歩兵組大隊の大隊長に命じられ禄高二百石槍持ちはじめ中間五名を従える身分となる。

しかし楠音次郎から受けた刀傷は顔の中心に跡を残した。

母はその傷跡を見て泣いた。

そこへあの綾がやってきて万二郎が話しかけるといきなり小刀を取り出して斬りつけてきたのだ。

万二郎は慌ててはねのけ綾は倒れてしまう。

そして目覚めると自分は真忠組の隠密だったと語りお取り調べを受けたのだというと立ち上がって去ろうとした。

だがそこで再び倒れてしまう。

万二郎は綾を取り調べた評定所を訪れ経緯を問うと綾は激しい拷問を受けうわごとを言い出したので気が狂ったとされて追い出されたのだという。

 

万二郎は怒ったが相手が評定所ではどうしようもなかった。

綾は万二郎の家で看病されることとなる。

しかし容体は変わらないままだった。

 

その間にも歴史は激しく動いていた。

長州の京都への進攻に対し幕府は長州征伐のために幕軍と諸藩軍隊を派遣した。

万二郎もまた出征することになる。

そして母に綾の看護を頼むのだった。

だが綾とふたりきりになった母は綾を飢死させようとしていた。

綾は夫の仇の妹であり今、万二郎の心を奪う憎い存在だった。

 

実を言うとおせき殿はまあ良いとしてこの綾さんとの話をどうして入れ込んだのか、あまりピンときていなかった。

実際この再読でこの最後の恋物語をすっかり忘れていた。

本来ならば主人公の熱い恋物語を忘れることはあまりないと思うのだが。

本作はよくあるヒーローマンガとは一線を画している。

万二郎の母親はここまで絵に描いたように優しい良き母として表現されていたのが突如悪鬼のようになってしまう。

それは夫と息子への愛情ゆえにではあるのだが。

がっつり心をつかむ、ということではないこの微妙な物語構成。

もやもやとしたわだかまりを持ちながらこの物語は最終章へと入る。

 

ところで作中の「真忠組」というのは本当にあるのだとわかって驚く。楠音次郎も実在だった。このキャラではないだろうけど。