ガエル記

散策

『陽だまりの樹』手塚治虫 十一巻「維新の章」

最終巻です。

 

 

ネタバレです。

 

 

ついに最終章となった。

伊武谷万二郎は頑固一徹のまま突き進んできた。

おせき殿を一筋に思い続けていた彼はもう少しのところでその糸はちぎれてしまい彼女は手の届かない場所に行ってしまう。

入れ替わるように現れた綾は万二郎にとって父の仇であった男の妹であり仇を取った万二郎は今度は綾の兄の仇となる。

そして万二郎の母にとっては愛した夫の仇の妹である。

万二郎は綾に惹かれるものを感じていた。恐ろしい拷問を受けた綾は植物人間となってしまうが万二郎は彼女を守り抜こうと考え仕事で遠出する際に母に綾の看護を頼む。

だが母は万二郎がいない間水や食事を与えず餓死させてしまおうと考えた。

良仙がこの状態を訝しみ万二郎の母に苦言を呈したことからその決意が鈍ってしまう。

母親は結局万二郎が悲しむことを続けられなかったのだ。

母は綾の看護をしようと考え直す。

 

万二郎は長州征伐に行く中で西郷に再会し薩摩に誘われるがこれを断る。万二郎は幕府の再建を望んでいた。

さらに坂本竜馬とも出会いその怪物ぶりを見せつけられる。

が、翌日万二郎はその坂本竜馬と密談していたとされて長州征伐隊長を解任され江戸へ戻っての謹慎を命じられた。

 

万二郎は母には言えず山岡鉄舟に自分の決意を打ち明ける。

しかし山岡もまた万二郎とは違う方向へと進んでいた。

万二郎の暗殺計画を聞くと「男の命はそんなくだらないことに使うものじゃない」と去っていくのだった。

 

幕府は長州征伐が西郷らの活躍で成功したのを幕府自体の実力と思い込み二年後またもや長州征伐をやり始める。

しかし今度は長州軍も負けてはいなかった。

寄せ集めの幕府連合軍は敗け続けた。徹底した敗戦だった。

良仙は治療してもずぐにまた戦争に行きまた大怪我をし戻ってくる兵士たちにうんざりしていた。

 

日本各地での「打ちこわし」が行われる。その二、三年の酷い不作で米が値上がりし農民や大衆は暴動を起こした。金持ちや地主の家を襲ったのである。

また「ええじゃないか」の歌と踊りが流行った。

 

慶応三年。徳川慶喜明治天皇大政奉還を奏上した。

ここから、徳川慶喜の描写は今現在の私の知識的にはどうなのかなと思うところがある。

また考えが変わるかもだが今の私は慶喜大政奉還するのは当然だと思っているからだ。慶喜は水戸人で水戸で学び育っている。尊王攘夷の水戸で学んでいたなら大政奉還するのは不思議なことではないし時代の流れでむしろ当然だったのではなかろうか。しかも慶喜自身の実母が皇族・有栖川宮織仁親王の王女で自分自身が半分皇統なのである。水戸学の教えに加え母が皇族なら本作に描かれているように大政奉還が渋々だったとはあまり思えない。

 

とはいえ我らが主人公、万二郎の心はまったく違う。

彼は藤田東湖に心酔しているわりにはほとんど勤皇していないようだ。その辺の心理は私にはよくわからない。

 

本作で慶喜は鳥羽伏見の徹底した負け戦に絶望していたとされ「上様ご自身が御出馬を」と言われ「明日こそ予が自ら陣頭に立つ」と答えたのにもかかわらずこそ下り大阪城を抜け出して江戸に向かって「謎の行動」とされるのだが、現在の私見としてはまったく謎の行動に思えない。

繰り返すが慶喜は半分皇族で勤皇を旨とする水戸学を心底学んでいたのだろう。むしろ日本中が勤王たるべきと信じていたと考えれば慶喜の心理行動はなにも不思議でないのだ。

聞けば徳川御三家とはいえ慶喜以前に水戸から将軍になった者はいないという。

もしかしたら「水戸から将軍を選べば勤皇の将軍となり徳川家の破滅になる」と思われていた、ということはないのだろうか。

それは私の想像でしかないがともかくも初めての水戸出身の(つまり勤皇の)将軍が誕生した時、徳川の武士の時代は終焉したのである。

それは歴史の必然だったのかもしれない。

 

なのでこのあたりの手塚治虫による慶喜描写だけはいまいち私にはしっくりきていない。

 

物語は続く。

慶応四年、天皇は徳川をはっきり朝敵とし五万の官軍が出発した。

東征大総督有栖川宮識仁親王。(げげっ、慶喜のおじいちゃんじゃないか)

参謀、西郷隆盛

 

朝敵と呼ばれた慶喜は「予はこの江戸城を去る。上の東叡山へ身を引きひたすら朝廷に恭順を示す」という。この発言も当然に決まっている。天皇を尊敬しているのだ。

そして二月十二日、朝五時、凍てつく朝靄の中慶喜と側近は上野東叡山めざしてこっそり落ちのびていく、とある。

 

しかし万二郎はまだ幕府の革命を夢見て我が家に十二人の同志を集め誓約書に血判し徳川家の再興と世直しを大義として江戸城に入り閣老を一気に射殺しようと考えていた。

勝海舟大老にして新しい閣僚を決め慶喜公をお迎えする、というのが万二郎の革命ヴィジョンである。

革命政府によって次々と新政策を展開し外国に堂々と渡り合える強力な日本になる。

万二郎はそう考えていた。

 

これは三島由紀夫的な革命だろうか。

 

万二郎の母はこの集まりを見て驚き息子に問いただすが万二郎は何も言わないままだった。

 

斬りこみ当日、万二郎の前に慶喜警護を任じられている山岡鉄舟が通りかかった。

万二郎は山岡から「慶喜様は江戸城から逃げた」ことを知らされ愕然とする。

そして山岡は薩摩軍の西郷に会い江戸城明け渡しの交渉を平和裡に行うと言うのであった。

もう万二郎がなすすべはなかった。

 

山岡は西郷に会いに行く。

そして何もできなかった万二郎は飲み屋に行きそこで良仙と出会いまたもやけんかとなる。

「幕府がなくなって天朝様が政権をおとりになる」という良仙に万二郎は反駁した。

「とんんでもない。徳川に代わってこれから政権を取るのは薩摩と長州さ。入れ替わっただけのことだ」

これは真実。

不思議なのはそこに水戸は含まれない。いやこれも不思議ではない。勤皇の水戸が政権を取るわけもない。

徳川もまた勤皇ではなかったのだ。勤皇ではない長州薩摩だからこそ政権を取れるのだ。

 

山岡は西郷に会い、西郷は勝海舟と会った。

江戸城は四月十一日に明け渡された。その前に城中から逃げ出した閣老はじめ役人や奥女中小者の手でめぼしいものは洗いざらい持ち逃げされていた。

 

万二郎は若隠居となっていた。

そこへ目明しの伝吉が訪れ「彰義隊」の話をする。

それはかまかけだった。

万二郎がなにかをしでかすと山岡が見張らせていたのである。

 

綾は次第に動けるようになっていた。

そして万二郎の母に何かを目で訴えていた。

それを見た良仙はもしやと紙と筆をあたえてみる。

綾は「あの人上のへいきます」と書いた。

 

万二郎は尼寺のおせきに会い別れの挨拶をした。

おせきは万二郎が彰義隊で出陣するのだとわかっていた。

 

万二郎は綾と婚儀をあげた。綾はまだ布団に座ったままだ。万二郎の母は綾との結婚を許したのだ。

しかしこの時薩長が上野への攻撃を始めたのである。

万二郎は武装し綾に離縁状を渡した。

良仙は怒って叫ぶ。

そしてこの時綾は振り絞るように「まんじろうさま」と呼んだ。

 

万二郎は上野に向かう。阿斗には永沢村の歩兵たちが続いた。

そして平助もまた。

 

慶応四年(1868年)五月十五日。

彰義隊は粘り強く戦った。

だが未の刻、アームストロング砲が火を噴く。

この距離で届く砲弾を受けては彰義隊はなすすべはない。

万二郎は平助に「俺が無事だということを家へ報告しろ」と告げた。

戦は終わった。

 

平助は万二郎の母と綾にこの言葉を継げて去っていく。

ふたりはこの言葉を信じいつまでも待っていた。

 

だが万二郎は二度と帰ってくることはなかった。

替えの噂では榎本武揚について蝦夷地へ回ったという。

そしてそれからまもなく函館五稜郭で官軍と戦い、それが最後の抵抗となった。

 

明治天皇を頂いた新政府は万二郎の予想した通り薩摩長州閥の絶対権力に替わっただけだった。

その重臣たちの中にも政策にきしみができ西郷んとそのグループはついに薩摩で叛乱を起こす。

薩摩の不満分子は西郷を担ぎ上げ明治政府に真っ向から歯向かい牙をむいた。

明治十年(1877年)西南の役が勃発する。

手塚良仙は第二次旅団中央所属軍医として参加したのだった。

その年、手塚良仙は九州の血で赤痢にかかり大坂の病院へ送られて死んだ。五十一歳であった。

作者手塚治虫は彼の三代目の子孫である。