1974年「少女コミック」19号~52号
ここまでの記事で「萩尾望都と言えば少年のイメージが強いが実は魅力的な少女を数多く生み出してきた」と書いたのはこのふたつの代表作の主人公が少年であったからでした。
少女マンガで少年が主人公でしかも少女はほとんど出てこない、というのはそれまでになかったことだと思えます。
この作品がコミックスだと三巻、それぞれ別マンガ作品が収録されているので実質二巻ほどで描かれたのは今では信じられない濃厚な内容です。
尚且つこれ以上足す必要もないと感じさせるものでもあります。
ネタバレします。
と言っても本作はとことん深く研究され語りつくされているだろうし他の人が気づいていないものなんてもうないだろう。
読めば読むほどこの小さな学校社会の中の少年たちの行動と語りに引き込まれてしまう。
主人公とその周辺だけでなく萩尾望都のキャラクター造形のバリエーションに驚くのだ。
例えばバッカスという人物が登場するかしないかでこの作品の持ち味は随分違うだろう。萩尾氏はこういうどかっと大きな男性をしばしば用いる。単にでかいだけというのなら他のマンガでも存在するがそのキャラクターが非常に作品の中で良い位置で働くのは萩尾氏の特徴だ。
たぶんこういう人物は現実でもいて好意を持たれる。
彼はこの作品で重要な場所である「ヤコブ館の二階はし」で行うお茶会の主的存在だ。
転校してきて苛立っていたエーリクの心を初めて緩めたのはバッカスであるしオスカーとも友好な関係を持っている。
どんな物語にも必ずひとりいて欲しいキャラクターそれがバッカスだ。
それと真逆な存在なのがレドヴィだがこのレドヴィという少年を出してしまうのも萩尾望都の醍醐味なのだ。
レドヴィ。小柄でさえない風貌で盗癖があるという問題児なのだがこの物語の重要な鍵を握っている。
トーマがアンテ・ローエと賭けをしてユリスモールをどちらが落とせるかといういわゆる「茶番劇」を行うずっと以前からユーリを想って書いた一篇の詩を『ルネッサンスとヒューマニズム』という分厚い本の頁に挟んでいた。
その本が置かれている図書館の奥の小部屋をレドヴィは聖域と呼んでそこへ行き本を開いてその詩を読んでいたのだという。
なぜ彼がそんな行動をしていたのかは描かれていないが彼の発言から考えるに人の心を覗き見ることが愉楽であったのかもしれない。
このレドヴィの存在はなくても物語は成立しそうだがレドヴィを作ったことでこの作品が奇妙な淀みを感じさせる。
彼らを或いは冷笑的に観察しているリアルなまなざしとして描かれるからだ。
もうひとつ印象的なエピソードがある。母親を失って傷心したエーリクが無断で学校を飛び出し自宅に戻ってきて弁護士のキンブルグ氏と話す場面だ。
追いかけてきたユーリにカッとなったエーリクが綺麗なティーポットを投げつけ壁にあたって壊れてしまう。それを見たキンブルグ氏がせっかく来てくれた友人に対して、そしてマリエ夫人が気に入っていた高価なポットを割ったことに対して叱責する。
「きみはまだ1ペニヒだって自分で働いて得ていないくせに単なる気まぐれでこわすなぞもってのほかだ」
そして「きみは教育をうけなきゃならん」と追い返すのである。
キンブルグ氏はこの場面だけ登場する太っちょキャラだがエーリクの短気を𠮟りつけエーリク自身も恥を感じるといういい場面なのである。
この場面もよく思い出す。
エーリクの子どもっぽさがうまく表現されているし、それをきちっと叱っているのも良い。
最後にユリスモールがヤコブ館の二階はしに行く場面の明るさ。
ここで彼を迎え入れるのがバッカスである。
ユリスモールはシュロッターベッツを出て神学校へ行く。
それを見送るオスカーとエーリク。
初めて読んだ時はやはり悲しかったけどそう思ってしまうほどこの物語に入り込んでしまったのだ。
もうひとつ。
エーリクがトーマの家を訪れて養子とならないか誘われた時に毅然と断ってしまうのが心地よかった。
エーリクの子どもっぽさが良い方に動いたのだ。
それにしてもトーマは死んではいけなかったと思うんだよね。