
ネタバレします。
「苦手な人種」1982年「プチフラワー」2月号
『メッシュ』で一番おかしく一番無慈悲な作品、かな。
メッシュが壊れた金鎖を修理しようと持って行った店から事件は起きる。
同時に入ってきた男が泥棒だったために仲間と間違えられ金鎖を置いたままメッシュは逃げ出してしまう。
その店には美しくて心優しい姉ポーラとその姉に劣等感を持つ出来の悪い娘ルーそしてやはり神経質でいつもルーの行動に苛立つ母親がいる。
ルーの容姿コンプレックスがいかにうまく解消されていくかの流れとメッシュの金鎖がいったんは嫌なロック歌手に渡ったものの再び綺麗になってメッシュに戻ってくる過程とやんわり絡んでいく。
うまい。
「謝肉祭」1983年3月号
こちらは男性のコンプレックス編というべきか。
メッシュ、ミロンはオズ・バードというデザイナーのファッショショーに突如参加することになる。
メッシュを気に入ったオズはそのまま謝肉祭のショーにも出てほしいと頼み込む。
ところがそこにオズの大学生時代の友人だった夫婦マルラとルシアンが訪れてオズの心はかき乱されていく。
この構図は以前の作品『十年目の毬絵』(1977年著)をちょっと思わせる。
『毬絵』は萩尾氏自身の出来事と重なるものなので用心深くなってしまうが考えたら『毬絵』から本作は6年しか経っていないことに驚く。
(そしてまた「まりえ」と「マルラ」という名前が妙に似てるってのが)
「大学生時代の仲間」だったのは同じだが本作では同じ絵描き仲間だったのではなくふたりはデザイナー志望のオズを励ましていた、となる。
オズのマルラへの愛情とルシアンへの尊敬がちょうど毬絵とその夫に対するものとが重なる。
だが本作では(萩尾氏にあたる)オズはマルラの愛情の空虚さと尊敬しきっていたルシアンの弱さを見出し自分が持っていた彼らへの畏怖のような敬慕はまやかしだったと悟るのである。
これもまた萩尾氏自身の思いが創作に出てしまったと考えるべきなのか。
まったく違うものとして見るものなのか。
いや、やはり『毬絵』から六年経ち呪いも薄れてきたのだと私は思ってしまうのだ。
「ずっと一緒でいたかった」と叫ぶように終わった『毬絵』から本作は彼らの化けの皮が剥がれすがってくるマルラと離れてオズは自分の子どもを宿しているダーダのもとへと駆け付ける。
「オレはくらくらとめまいがしたよ。お祭りは終わったのかな」
と言って幕は閉じる。
萩尾氏自身もまたそう感じていたのなら安心する。
「シュールな愛のリアルな死」1984年6月号
メッシュはついに母親に会う。母親は精神を病んでいる。
母親は自分がフランソワーズという名の娘を産んだと思い込んでいる。
そのせいもあってメッシュが自分の子どもだというのをどうしても信じない。
そんな母親に愛情をもっている義兄になるルイード。
そしてメッシュの祖父。
さらに父親の血を受けた子どもは自分だけと知ってメッシュは親子の絆というものを思い知る。
「絆」とは「断とうとしても断ち切れない人の結びつき」と辞書にある。
相手の情にひきつけられて心や行動の自由が縛られるという意味だともある。
束縛であり呪いなのだとメッシュは感じるのだ。
この呪いから萩尾氏の創作は逃れられない。
それゆえにこそ素晴らしい作品が生まれたのだろうがそれは幸せなのか。
なにかを得るにはなにかが失われる。