ガエル記

散策

『金曜の夜の集会』萩尾望都

1980年「SFマガジン」11月臨時増刊号

うわあ。これはまったく初めて読みました。

こういう「最初からずっと追って読んでいく」というのをやることで見つかるものですね。

 

 

ネタバレします。

 

レイ・ブラッドベリ風SFとも言えるのだろうか。

タイトルに『集会』という言葉が使われていることからも感じられる。

どことなく横山光輝SF短編に似通うものがあった。

 

前記事の荘厳ともいうべき時空の旅とはうって変わってカジュアルなイメージのタイムループものである。

舞台は少し以前の(つまりブラッドベリが舞台としたような)アメリカの田舎町、という感じだろう。

そこに住む普通の少年マーモの周辺に起きる「いつもの日常なのにいつもとちょっと違う何か」からこの世界が同じ一年を何度も繰り返している、ことが知らされる。

 

今となればいろんな作品で使われる「繰り返される時間」を扱った作品なのだが発表された1980年ではどうだったのだろうか。

(いや初めてとは言わないが)

話題となった押井守うる星やつらビューティフルドリーマー』は1984年公開である。

萩尾氏は彼女の特色なので仕方ないのだがこの作品が現代日本舞台で描かれていたらもっと話題になっていたのではないかとついつい悔やんでしまう。現在ならアメリカ舞台のマンガもアリだけどこの頃はまだまだ日本物じゃないと受け入れられなかったと思うのだ。

アメリカ映画はOKなのに奇妙なことだ。

 

という愚痴はおいておいて。

本作のタイムループは奇妙な作品ではある。

ほつれを見つけようと思えばいくらでもありそうだし、そもそもなぜこのタイムループをソーフィアが繰り返しているのか、がよくわからない。

作中にある「熱と化して消えるんだよ」「どうして?戦争?」「たぶん」というやりとりからこの町が一瞬にしてなにかの攻撃を受けて消滅したのではないか、と想像される。

その消滅の悲劇から逃れるためにソーフィヤはこの最後の一年を何度も繰り返しているのだ。

なぜか大人たちは記憶が残り子どもたちからは記憶が消されているらしい。

このタイムループはまったく同じではなく幾つかの変則があるらしい。

そうした変則に何かの期待があるのだろうか。

ソーフィヤが病弱なのはこのタイムループを行うために力を使ってしまうからなのか。ではソーフィヤが力尽きたらループも終わるのか。

 

イムループものはむなしいものに思えるが200年代にはいってますます盛んになっていく。

ソーフィヤは「安全な未来はないのよ」という。

世界は腐りきっていると皆が感じているためにもう一度もう一度時間を繰り返すことで

なんとかならないのだろうかと思っているのだ。