ガエル記

散策

『偽王』萩尾望都

1984年「プチフラワー」9月号

すみません、この作品、私は読んだことがあったのでしょうか。

未読だと思い込んでいたのに、読んでしまうと以前に読んだことがあるような気もしてきて、しかしこんな恐ろしい話を一度読んで忘れることがあるのでしょうか。

それともあまりに恐ろしくて記憶から消してしまっていたのが再読で蘇ってきたのでしょうか。

あの偽王の歯の欠けた口を見て「見たことある?」となってしまいしかし読んだ記憶が曖昧なのです。

それではまさに偽王と同じではないですか。

今、恐怖に怯えています。

 

 

ネタバレします。

 

というデジャヴュなのか、読んだのに記憶喪失していたのか、いやそんな馬鹿なこんな話をという葛藤しているがそれはそれとして物凄い話ではないか。(いやまた困惑)

 

この物語を読んだ者はもう以前には戻れないだろう(私のような記憶喪失は別として)

イメージ的には白土三平作品と重ねてしまう。

主人公の青年はカムイのような美し佇まいで旅をしている。

青年はおぞましい過去がありその復讐の旅をしているのだがそれが『カムイ外伝』の第二部変身の色の第二話「人狩り」の逸話に似ていて権力者によって姉弟がレイプされてしまうのだ。(1983年作品)

カムイ外伝』では姉は殺されることはなくカムイの手助けによって直後にその権力者に対して復讐するという話になる。

本作『偽王』ではカムイはいない。主人公がカムイのように美しいというだけで。

そして姉を殺された弟は長い年月のあいだ「まるで恋をしているかのように」復讐することだけを考え続けてきた。

 

青年と偽王が住んでいいた美しい国ヴァルー・ファルー(不思議な名前だ。ヴァルハラからの命名だろうか)では50年に一度贖いの祭りの年に国王はその額に印を押され去勢し目を打って贖罪者として追放するのである。

 

その祭りの年には狂乱に次ぐ狂乱の騒ぎとなるという。

夜ごとの花火、火事、殺人、阿鼻叫喚、酒、音楽、街中が踊り騒ぎ、その中で王は青年の一家を祭りの生贄として選ばれ姉弟は犯され姉は殺されたのだ。

思い出すと苦しい。深く刺さった棘に触れると痛むように。

 

偽王は流沙に足を取られ青年に助けを求めながら沈んでいく。

流沙というのも白土三平を思わせる。

 

しかし白土三平も考えていたかどうかわからないけど萩尾望都『偽王』は物語そのまま、ではなくこの物語を現実世界と重ねているように思える。

(いや白土三平も重ねていたかもしれないし、萩尾望都は単に美しい神話として描いただけかもしれないのだが)

偽王は明らかに社会が負った罪をひとりでかぶり贖罪することとなる犠牲者だ。青年は自分自身の魂と家族を奪われた復讐を果たすが真に正さねばならないのはヴァルー・ファルーの奇天烈なルールだろう。

 

青年はまだ若く「恋のように」燃え上がる復讐心だけで偽王を追い仇討ちを果たすが時が経てば自分が行動すべきは社会を変える事か、他の国へ行くことだと考えたのではないか。

 

しかしそんな地道な思考をしていたらこんな美しい物語は生まれない。

破天荒な名作を生むのが若い作家に多いのは「考えが足りないための苛烈な爆発」ができるからだ。年を取るほど深く考えすぎ物語には躍動感がなくなっていく。

あの無茶苦茶な構想の『進撃の巨人』は諌山創氏がごく若い時に発想しそのまま描き続けたからできたものでもう少し後では恥ずかしくてできなかったのではないかと思うのだ。(いやほんとうによかった)

 

それを思うと萩尾望都はいつまでも精神が幼いのだろうか。

わかったうえで青年の幼さを考えて描けるのだろうか。

物語を考えてその幼稚さを恥じるものには美しい作品は描けないのだ。

 

醜い偽王が美しい青年にすがり「わしにふれてくれ。つめたくしないでくれ。ヴァルー・ファルーへつれて帰ってくれ」と泣く場面に誰しも心動かされるだろう。

このイメージを描きたかったのではないだろうか。