ガエル記

散策

『残酷な神が支配する』萩尾望都 その2

萩尾望都氏はあちこちで「グレッグを描いていて辛くありませんでしたか?」という質問をされそのたびに「それが楽しくて仕方なかったんですよ」と答えるのを繰り返しています。

むろん萩尾氏は自分自身の辛かった時期を重ねて本作を創作したはずですがこれまでと違って親側に感情移入してしまったということでしょうか。

夏目漱石は小説を書くことで自浄作用があった、と『「坊っちゃん」の時代』に描かれていましたが萩尾氏も本作を描くことで何らかの自浄作用があった、ということなのでしょうか。

 

 

ネタバレします。

 

 

確かに、執拗にグレッグのジェルミへの性暴力は繰り返し描かれていく。

他のこういった作品であれば衝撃的な描写の後では「何度も彼は性暴力を繰り返しぼくの心と体を踏みにじっていった」というようなセリフと幾つかのコマでイメージを示して表現しそうなものを本作ではそうした抽象化簡略化はされない。

事実においてそうした性暴力が簡略されたりはしないからだ。

ジェルミも次第に馴れたりもしない。

何度暴力を受けてもそのたびごとに傷は深くなっていく。

大好きだったガールフレンドとは別れを告げる。

自分にはもう可愛らしい少女と恋をする権利がないのだとジェルミは思い知る。

 

あまり書きたい話ではないのだが今本作を読む者はどうしても「ジャニーズ問題」と重ねてしまうのではないだろうか。

私たちは「ジャニーズ事務所」という場所で数知れぬ少年たちがその支配者であるジャニー喜多川に性暴力を受け続けていることを知っていた。

いわば日本中の日本人がそのことを知っていたのだが誰もそれを本気で止めようとはしなかった。

何人かは本気の人もいたかもしれないが結局その力は弱くジャニー氏が死ぬまで(いや死んでからもだろうか)その性暴力は続いたのだ。

この話は本作とあまりに重なってしまう。

結局ジェルミはグレッグを殺すことでしかこの問題を解決できなかった。

支配者が死なない限り性暴力を抑えることができなかった、のはジャニー氏の問題とあまりに似ている。

そして私たちはサンドラだったのだ。自分の幸福のために自分の息子を犠牲にしたサンドラなのだ。

ジャニーズの少年たちが支配者(とそれにすりよる)の餌食になっていることを何十年も前から知っていたのに薄笑いを浮かべながら「仕方ないよね、そういう世界なんだから」と見て見ぬふりをしてきた。

男の子たちだけが何も知らぬままその世界に入り支配者に気に入られたら性暴力を受けることになる。それで日本社会が栄え幸福になるのなら多少の犠牲者には我慢してもらおうという仕組みを私たちは知りながらなにもしないまま何十年と過ごしたのだ。

これを否定する人は卑怯なのだと思う。

何故なのだろう。何故止めることが出来なかったのだろう。

日本という国の幸せ平和のために生贄が必要だった。

ジェルミのような美しく愛らしい少年たちの生贄だ。

本作はそうした社会仕組みをある一家に模して描いたかのようだ。

もちろん萩尾望都ジャニーズ事務所をイメージして描いたというわけではないだろう。

たぶん「家父長制度による社会仕組み」というのは多かれ少なかれこの仕組みになってしまう、ということなのだ。

その犠牲者は弱き者。

少年や少女。

誰かが犠牲者になる事で家族がそして社会が幸福になれるのならそれでいいじゃないか、ということだ。

 

グレッグはそれを自覚している。

自分は立派な男で経営者で家族の長だ。本作の中でも彼は優れた人格者として社会に認められているのがわかる。

長男イアンは父をやや煙たがりながらも男として尊敬していたようだ。

仕事仲間も秘書も彼に一目置いている。

そうした「立派な男、優れた経営者」を演じるためには鬱憤を晴らす生贄が必要なのだと言うのである。

それがジェルミだった。

美しいサンドラを妻にすることで皆が羨む理想の素晴らしい家庭を作り上げ、その息子をレイプすることでストレスを発散させるのだ。

 

しかしここで登場するのが次男のマットだ。

マットはグレッグが嫌な存在であると認識している。

何故ならマットはハンサムで有能なグレッグと美しい元・妻リリヤとの間の子供でありながら「ブサイクでなにかにつけて苛立つ行動をし虚言癖がある」という問題児でグレッグからは「私の子ではない」と突き放されているからだ。

リリヤの姉ナターシャはそんなグレッグの言葉に反発し血液検査までしてマットがグレッグの実子であることを証明した。

それでもグレッグにはマットの存在がうとましくてしょうがない。

そんなマットはグレッグがジェルミにキスしている場面を目撃して皆にばらす。

しかしもともと虚言癖のあるマットの言葉はただちに「虚偽」だとされてしまうのだ。

ここでマットの言葉が皆に受け止められていたら、と思う。だが現実は残酷に暴力をのさばらせていく。

 

マットの存在は『トーマの心臓』のレドヴィを思い起こさせる。

盗癖のある少年だった。

特別に物語に絡んでくるのではないが皆から疎外されていた少年だからこそ誰も知らない秘密を知っていた、と設定される。

あるいはデュ・モーリアレベッカ』に出てくる誰もが愛するレベッカの本性を知っている少年のようでもある。

もしかしたら萩尾望都が共感したのはジェルミではなくこのマットなのかもしれない。

 

 

そして問題なのはイアンだ。

今のところ、いったいイアンがなんなのか、私にはよくわかっていない。

イアンは明らかに若いグレッグだ。

ハンサムで有能で男らしい。

女好きだがジェルミに対して後に性交渉を持っていくのもグレッグと重なる。

ふたりの関係性が義兄弟なのはこの際関係ないだろうがイアンにそのままグレッグ譲りの家父長的な人格を与えたのはあえての選択なのだろうか。

 

それにしても、とは思う。

ジェルミはこれほど性暴力で抑えつけられても「誰かを愛したい。まっすぐに。幸福になりたい。この狂った秤の針をもとにもどしたい。平和な家庭なんて幻想だ。なにもかもぶっ壊してやる」と考え行動する姿をみると本作はやはり萩尾望都作品なのだ。

この強さがとても好きなのだ。

 

ジェルミはなんとかこの事態を解決しようとして売春婦のディジーを探し出して話を聞く。

このあたりはまっとうなサスペンスミステリーの味わいでほっとする。

彼女は「あいつから逃げなさい」と忠告してくれる。

しかしまだ二巻の半ば。

ジェルミの苦悩はまだ延々と続くのだ。

グレッグが死ぬまでではなく死んでからが長いしなんなら作品が終わった後も続いているのだから。