ややこしくなりますが「シリーズここではない★どこか」の2巻目『スフィンクス』に入ります。
ネタバレします。
「青いドア」
「月刊フラワーズ」2007年8月号
このお話を「良い話だなあ」と感じるか「なんて嫌な女だ」と感じるかであなたの人生がわかります。
と言いたくなる作品だ。
語り手は「夫」である晴夫さんだ。
眼鏡のいかにも一般サラリーマンといった風情だ。平凡だが心優しく妻を愛している。
その妻の喜代子さんはなかなかの美人で生活力もあるけれどやや行き過ぎている感がある。
我が家をより良くしたいとまずはドアを青く塗ってしまう。
マンガはモノクロなのでわからないがかなり奇抜なのかもしれない。
平凡派の晴夫さんとしてはもっと地味目にしてほしいはずだが妻がにこやかに「わたしのラッキーカラーなの」と言ってるのを見ると「嫌だ」とは言い難い。
次は壁紙とカーテンの色を変え照明を変えればもっと良くなるわというのを反対もできない。
ところが注文した照明とは違うものだったため喜代子さんは泣きだしてしまう。
「いいんじゃない?」と返したら「あなたはわたしの目が悪くなってもいいというのね」とまた泣きだす。
さらに垣根を作り白い門を注文したという。
晴夫さんは黙っている。
しかし定期を解約してイギリス製の三百万円の温室ベランダを作りたいと言い出した時はさすがに声を荒げてしまう。(どうやら百万円の品で解決した模様)
ここで生方先生登場。
晴夫さんは先輩の生方氏に愚痴を聞いてもらおうとバーに誘ったようだ。
「浮気でもしたら?」というマスターに「喜代子を愛しているんです」と言い返す晴夫さん。
とはいえ「家に帰りたくない」と顔を伏せる。
生方氏は「人の縁というのは業なんだよ」と語りかける。
「奥さんとの縁も業だと思って引き受けるしかないね」
家に帰ると喜代子さんは灯りもつけず真っ暗なベランダに座っていた。(百万円の)どきっとする晴夫さん。
月見をしていたというのでほっとする。
喜代子さんはドイツ製の屋根瓦を注文したかったのに品切れだったというのでがっかりしてる。「きっとお洒落な屋根になるはずなのよ」
その夜、晴夫さんは喜代子さんと月に行った夢を見た。
喜代子さんは妊娠した。ふたりは喜び合う。
リフォーム熱はぴたりと収まった。
喜代子さんはもう生まれてくる息子のことで頭がいっぱいなのだ。
「ベランダを作っていよかったわ(ここまではいい)ねえ学資保険に入っていた方がいいわ。幼稚園は私立K大付属がいいわ。水泳は0歳から。英語は6歳からね。ゲームなんてさせないで児童文学全集を買うの。ピアノを習わせて・・・」喜代子さんの夢は尽きない。
カモーンベイビーこれもきみの運命。
晴夫さんは思う。
青いドアの家が待っているよ。
なんと幸せなお話か、と思う。
生方先生の「人の縁は業」という言葉が沁みる。
「オイディプス メッセージⅢ」
「月刊フラワーズ」2007年9月号
また悩んでしまう話を。
「オイディプス」の物語はそのまま描かれる。
そうだ。オイディプスもまた「愛されなかった子ども」の物語だ。
彼は父王の命令によって足首を留め金で刺されそのまま殺されるところだった。
だがその命令は果たされず彼は別の地で育ちやがて神のお告げ通り父王を殺しそして母と結ばれ子を成したのだ。
黒の男は「父王と母があなたを育ててさえいればあなたは父を殺し母と結ばれるなどという罪を犯すことはなかったのだ」と「罪は父と母にある」
しかしオイディプスは自分が犯した罪を恥じ自ら己の目を潰し自ら追放されたのだ。
この物語を知った時の萩尾望都はどんなに悲しかっただろうと思う。悔しかったというべきか。
例えその罪が「愛されなかったゆえに」と言っても許されないとは。
ここで「黒い男」は萩尾望都自身なのかと思う。
「世界の終りにたった1人で」
「月刊フラワーズ」2007年10~11月号
複雑な話なのでしっかり読まないとなかなか難しい。
というかこれもまた一大長編を描けるだけの内容なのに短編二編で描いてしまう萩尾望都の怖ろしさよ。
最初ぱっと読んでしまった時はおばあちゃん画家が若い男にいれあげた話かと思ってしまったのだが(しまうなよ)そんな話ではないのだ。(誰もそんな早とちりはしないだろ)
長い年月の物語を数ページでまとめてしまうというのは萩尾望都の超絶技巧のひとつだが本作でもその能力がしかも効果的に発揮される。
初めて大津ちづが千田巴と会った時、ちづは40歳、巴は30歳。
男より10歳年上とはいえこの時はまだじゅうぶんに若かったはずだ。
しかし巴が34歳で26歳のかおりが現れた時にはちづは44歳だ。以降、当たり前だが男の巴にとってちづは加速的に年を取り、巴はいつも若い女性と関係していく。
波打ち際でタンゴを踊る若くなったちづと巴の構図は神がかっている。こんな絵を描ける人がいるんだろうか。
本作では生方氏と家族そして巴という男性を通じて義兄弟(血はつながっていない)のテルヒというチャラい青年が関わってくる。
テルヒは知らずにちづ先生を母親のように愛していた。
親に愛されなかった子どもであるテルヒにとってちづ先生は母そのもの母以上だった。
それは傍から見れば老女性画家と若いツバメのように見える関係だが実際はそんなたやすいものではなかったのだ。
今はすっかり年を取り生方氏の母と暮らす巴はちづ先生から「海」を贈与されるがまったく興味がないのだ。
「ちづ先生のこと、どう思っていたのですか」と問われても「そんな昔のこと」というのだ。
たぶん巴にとっては遠い昔に知り合っただけで恋愛感情などは抱いたこともない存在だったのだ。
当然なのだ。
だけどちづ先生にとっては忘れられない男だった。
巴はよくある少女マンガの「イケメンキャラ」ではない。しかし大男で芸術家という巴はちづ先生にとって特別な男だった。
豪放磊落と思えたかもしれない。
ちづ先生は萩尾望都自身かなと思ったりもした。
なぜか違う気はしている。
理由はないが。