不思議なドキュメンタリーだった。
ネタバレします。
「私はミステリーを書いていない」と言う。
『見知らぬ乗客』『リプリー』(つまりは『太陽がいっぱい』)の原作者でありながらそんなわけはないだろう。
彼女を評して「欧米ではアガサ・クリスティに並ぶ人気作家」と銘打たれるというハイスミス。
クリスティは自分でもミステリー作家といっていただろうがハイスミスは自己認識ではそうじゃないのだ。
こうなるとまったく作品を知らない自分としてはなんともいえない。
ではなぜ私がハイスミスを題材にしたドキュメンタリーを観たのかと言えば映画『リプリー』が大好きだからだ。
年齢的には『太陽がいっぱい』が好きでリメイク映画はどうもね、と言ってしかるべきなのだろうが私はアラン・ドロン主演でかっこいい『太陽がいっぱい』よりもマット・デイモンが不器用な男を演じた『リプリー』が比べようがないほど好きだった。
残念なのはこの映画はハイスミスの死後に製作公開されているのでご本人の評価はされなかったことではある。
このドキュメンタリーは終始ほぼパトリシア・ハイスミスの元恋人だった女性マリジェーン・ミーカーによって語られていく。
パットの苦しみの根源は同性愛だったことは確かでそれは映画『リプリー』で実に巧妙に描かれていた。
現在でもその苦しみが完全に無くなったわけではないだろうが彼女が生きた時代に同性愛はもっと明確に「奇妙な性愛」だった。
ただパットはNYのレズビアン・バーで人気者だったという。
同性愛で苦しんでもいたが美しい女性たちとの恋愛も楽しんでいたのだ。
パトリシアのもうひとつの根源はアメリカ・テキサスの出身だったということも描かれる。
パットは両親と離れて6歳までテキサスの祖父母の家で幸福に過ごす。
アメリカ南部で生まれ育ったことが彼女の人格を形成したと本人が認めている。
それは男性優位の社会であり女性は男性なしでは生きられない存在でありレディはレディらしくいった価値観であり人種差別的偏見もあったようだ。
『リプリー』においても女性の存在は危ういものだった。
彼女はカタツムリが好きだったらしい。螺旋の形、そして雌雄同体であること。半分の存在に興味があったという。
そして自分の作品『リプリー』について「主題は殺人ではなく”罪の意識”なのだ」という。
または「たとえ捕まろうとも自白したくなる欲望ね」と。
この言葉は同性愛を隠している自我を強く感じさせる。
「でもリプリーは殺人を犯してもしれっとして逃げる」
でも今後はどうなるかわからないのでは、と言うインタビュアーに
「常に逃げ切るわ」と答えるのだ。
心を表現しているような不安定な音階のバックミュージック。
パットは6歳でNYにいる母親に引き取られる。
その母親は娘に「おまえがおなかにいる時、私はテレピン油を飲んだの」というのだ。「おまえの父親がそうしろと言ったのだ」と。
なのにパットはなんとかして母親に愛されたいと願う。
私は母と結婚した、とまでいう。
しかし母親は一度もパットを愛したことはなかったようだ。
彼女がレズビアンであることも嫌悪でしかなかった。
やがてパットが『キャロル』を出版した後、その本を見つけ牧師に相談していたという。
パットはついに母親との決別をする。
法的にも母子の縁を断ち切ったのだった。
「わたしが小説を書くのは生きられない人生の代わり」
そして小説を書けない者、映画を作れない者はその代わりにまたそれらを読み、鑑賞するのだろう。
自分のほんとうの人生がどこかにあるのではないかと探すために。
『アメリカの友人』の映画のポスターがパットの部屋に飾られている。
夢と現実とのギャップ。
人の願いには失望がついてまわる、ということを書いたのだという。
そしてそういうものなのだと。
さて私はパトリシア・ハイスミスの小説や映画をできるだけ味わってみようと思っている。
随分遅くなってしまった。