大好きな映画作品で何度も観てその感想もどこかに書いています。
一時期マット・デイモンにはまっていたこともあって。
今回はパトリシア・ハイスミスの原作であるという点に注目して書いてみようと思います。
ネタバレします。
『パトリシア・ハイスミスに恋して』というドキュメンタリー映画を見て初めて彼女が同性愛者でありそのことに苦しみ続けた人生であると知った。
映画『リプリー』には同性愛そのものの描写はそれほどないがかつての『太陽がいっぱい』に比較すればはっきりと表現されているし原作にはもう明確にリプリーがディッキーに恋して恋人マージを蔑んでいる様子が描かれている。
たぶんこの心理と状況は彼女自身が同性の対象者とその恋人の男性に対して感じたものなのだろう。
ではなぜそのまま女性としてのリプリーではなかったのか。
ドキュメンタリーでは彼女の恋人で小説家でもある女性が「男も女も男の物語を読みたがるからよ」と答えていた。
なるほどその説明はたしかに「そうだった」と思える。
当時『リプリー』が女性であるという設定で存在しえただろうか。
したとしても同じように小説が売れただろうか。
マット・デイモンとジュード・ロウではなく女優の設定で映画が製作されたか、同じように観客が動員され受賞しただろうか。
「たられば」には答えはないが「あの頃」は無理だったのではと思える。
もしかしたら現在ならばその可能性はあるのかもしれない。
イギリスで日本作家、柚木麻子の小説が好まれ24年度の「今年の一冊」に選ばれた。
内容が木嶋佳苗事件を元にしているという情報もあって私にしては珍しく読んでしまった。
内容はまったく違うがどこか女性に設定したリプリーのように思える。
むろん女性と男性では物語そのものが変化するはずだ。
『リプリー』をそのまま女性に設定することはできず物語そのものが違った形になるのではないか。
ではいつか『BUTTER』が映画化されるだろうか。
「女性としてありえない」とされた容姿の梶井真奈子を誰が演じるのか。
それはありうる未来かもしれないから待つことにしよう。
だが、ハイスミスがこの小説を読んだらどう思うのか、はもう知ることはできない。
というかハイスミスがもっと後、現在活躍する時代に生まれていたのならそもそも『リプリー』はなかったかもしれない。
やはりたらればを言っても仕方ない。
映画『リプリー』の感想を書かねばならない。
それは自分が貧しい身の上を隠さねばならないという彼に自分がレズビアンであることを隠さねばならない、を乗せていると考えながら観ればより心は痛む。
リプリー自身も同性愛者ではあるしそのことも隠しているのだからより複雑でややこしい。
ハイスミスはドキュメンタリーで『リプリーは決してつかまらない。逃げきってしまう」と語っていた。
映画でもその表現は明確だった。
映画監督のアンソニー・ミンゲラ氏は同性愛者ではなかったかもしれないが非常にその感性に近いもの、寄り添うものを持っていたのではないかと思える。
ハイスミスは「リプリーはゲイではない」と語っていたのだがミンゲラ監督は「それはハイスミスの自分自身への誤謬」と考えたのかもしれない。