こちらも何度か観ているはずなのですが、今回パトリシア・ハイスミス考察ということで久しぶりに再鑑賞して映画作りのあまりの違いにあっけに取られているところです。
ネタバレします。
フランス映画、だからなのか、時代のせいなのか、ルネ・クレマン監督作品だからなのか、映画『リプリー』と原作小説との違いが物凄い。
これは「いけない」と言っているのではなくむしろ原作と映画とはこうあるべきではないかと感心したのだった。
現在特にマンガ原作の場合「原作とは違う」という煩い批判が巻き起こるがこのくらいはっきりと違っていいのではないだろうか。
原作を読んで生まれたイメージを映像化するのが映画なのだと改めて感じさせてくれた。
それでも私は『リプリー』のほうが好きではあるが。
さて殺人の違いを見てみよう。
原作と映画『リプリー』では小さなモーターボートの上で行われる。
トムがディッキーをオールで殴るのは同じだが原作では最初脳天を殴るが映画では最初から側頭部に深い傷を負わせる。
こちらのほうが良い。しかも映画では殺す前に長々とディッキーがトムを苛め抜き殺されても仕方ないと思うほどの蔑みを見せる。
逆に殺しの後で小説では詳細が描かれるが映画ではトムがディッキーに添い寝するかのような場面が演出され後処理の部分は省略されていた。
本作『太陽がいっぱい』のフィリップ(ディッキーのこと。なぜ?ディッキーという響きがフランス人的には良くなかったのだろうか)殺人は実に早く訪れしかもあっけない。
なんとなくカードゲームをしていたかと思ったらトムが突然ナイフを突き立ててフィリップは即死する。
後処理描写は逆に念入りに行われ海が荒れトム自身が海に落ちてしまいそうな不安に襲われる。本作ではアラン・ドロン演じるトム・リプリーの悪行と逃避行が魅力的に演出されていく。
映画作品としてはそれで良いしそのイメージは素晴らしい。
ただ、どうしても人間の心理を見つめていきたくなっている現在の感覚では物足りなさも感じてしまう。
私はディッキーとトムそしてマージの心理を見せてくれる『リプリー』が好きなのだ。
それはそれとしてルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』は実に映画的な映画だと思う。
ところで第二の殺人であるフレディのほうは面白いことに小説も映画二作品もとても似ている。ここは変えられない描写だったのだろうか。
ただし殺しの武器が小説では「やっとつかめるかという大きな灰皿」であり『リプリー』では西洋の石膏像。それが『太陽がいっぱい』ではなんだろうどっしりとした緑色の石で作られた東洋的仏像(?)で思いきり殴られてしまうのだ。それがにこやかな笑顔なのでちょっと奇妙にも罰当たりにも感じる。
そう言えば最初のフィリップ殺人の後、トムが豪華なヨットを海岸につけると地元の民が「罰当たりめ」と罵るのだ。
そうだ。
その豪華なヨットがこの映画の最も違う点なのは上にあげた有名なポスターですぐにわかる。
この映画ではトムとフィリップそしてマルジュ(マージ)がヨットに乗る場面がかなり長く描写される。
映画を見てから原作を読んだらこの美しい場面が少ないのにがっかりしてしまうのかもしれない。
殺人現場が美しいヨットではなく小型モーターボートだったのはより謎になったかもしれない。
『太陽がいっぱい』は美しい映画だ。
最後の場面まで取り散らかった美であった。
『リプリー』はそういう美しさではなく原作もまたそうだ。
パトリシア・ハイスミスの原作でまったく違う素晴らしいふたつの映画が作られた。
もしかしたらもう一度作られるかもしれない。