ガエル記

散策

『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』アンドリュー・ウィルソン/訳:柿沼瑛子 その9

ネタバレします。

 

 

第19章「究極の神経症」1960-1962

1960年2月ハイスミスはヨーロッパからニューヨークへ帰国し発売されたばかりの『愛しすぎた男』に対して好意的な批評を受ける。

次に彼女は季節外れのギリシャの旅から得たものを小説に取り入れようとしていた。

これは1964年に『殺意の迷宮』として刊行される。

執筆途中でハイスミスは都会から田舎へと引っ越しするがこのために執筆は難しいものとなってしまう。

ハイスミスは「執筆中の作家が安定したキャラクターでいられないのは常に作品中の登場人物になってしまう」からと述べている。

『殺意の迷宮』は最初のバージョンではひどく取っ散らかってしまったという。

が、完成稿は担当編集者カーンに気に入られずハイスミスは再び書きなおしを始める。

しかしそれでもカーンからは「好きになれない。彼らの行動は納得のいく理由や動機がない。退廃的空気がただよっており強い嫌悪感を感じる」とまで言われてしまう。

結局この本はカーンの所属するハーパー&ブラザーズ社ではなくダブルディから刊行される。

が、本作は批評家の注目を集めまさにカーンが指摘したハイスミス作品の問題点が絶賛されるのである。

この小説は1965年に英国推理作家協会で最も優れた推理小説に与えられるシルバー・ダガー賞を与えられる。

ハイスミスはこの時授与されたダガーをレターオープナーとして使い続ける。

「(編集者からの)このような拒絶はすべての未来ある作家たちがこの世界で一度は直面しなければならない経験である」

時に数千ドルに価する時間を費やすことにもなるが作家はこうした後退をスパルタ式に受け止める術を学ばねばならない。少しばかり悪態をつくにせよ、それからベルトをぎゅっときつくして新しいものに向かうのだーもちろん、熱意と勇気と楽観する力を持って。

 

ここでハイスミスの『殺意の迷宮』はドストエフスキーの『地下室の手記』に基づいているという説明がされる。

背後にドストエフスキーがいるのだ。

地下室の手記』ですでに証明されている手段をハイスミスの技術で取り入れたのである。

カーン氏の好みではあるだろうが惜しい選択をしたものだ。

ハイスミスは『殺意の迷宮』執筆の間レズビアン小説のアイディアにも思いめぐらせていたが完成することはなかった。

 

しかしそれでもハイスミスは自分の人生により深く関わる物語を書かないではいられなかった。

『ふくろうの叫び』である。

1961年6月パットは風疹にかかっていしまう。だが『キャロル』誕生の際に水疱瘡に苦しんだことで想像力が活発になったのと重ね今回もそうなるとパットは確信し1962年2月には小説を書き終えていた。

 

ハイスミスは『ふくろうの叫び』を最も出来の悪い作品だとみなしていたが批評家たちは傑作のひとつだと考えていた。

「過去二十年間で非常に優れた作品と言えるのはわずかだが『ロリータ』と『ふくろうの叫び』のふたつは間違いない」

 

またハイスミスオスカー・ワイルドに共感をおぼえていて彼の手紙の一節を『贋作』の題辞として使う。

「ぼくなら真実のためよりも自分自身の信じていないもののために死ぬ方がいい。そのほうが喜んで死ねると思う。

芸術家の生涯は一種の長くて美しい自殺だと思うことがある。ぼくはそれを悔やんではいない」

 

第20章「しがらみからの自由」1962-1964

1962年の夏、パットはその後四年間にわたって恋愛関係を築くことになるロンドンの実業家夫人と出会う。

アメリカに戻ったハイスミスは恋しさで仕事もできずアメリカを離れイタリアのポジターノに借りた家に拠点を移し翌1963年以降ヨーロッパに永住することになる。

 

時は戻り1961年ハイスミスはシカゴ連邦刑務所の男性受刑者から手紙を受け取る。

これを機にふたりは文通することになる。

男性はハイスミスの『水の墓碑銘』を讃え、ハイスミスは受刑者である彼に刑務所での普段の日課を書いて送ってくれないかと頼む。

男からは3ページにわたる返信が届きそこには靴工場での作業内容や囚人たちとの付き合い、消灯後に刑務所内に響き渡る音などについて書かれていた。

ハイスミスはどんな本からも入手できない類の情報だとして『ガラスの独房』を執筆することになる。そのために他のノンフィクションを読み刑務所を直接見学にも行く。

が、1963年ハイスミスは40ページほど書き進めた時点で体調を崩し執筆が止まってしまう。

極度の疲労という診断を受けるがそれから間もなくハイスミスアメリカを離れイタリア・ポジターノへと引っ越すのだ。

同様にロンドンの恋人である女性も体調を崩していおり夫から「二人の関係に勘づいているがハイスミスに会ってもらえば妻が元気を取り戻すだろう」と逆に頼まれてしまう。

ハイスミスは仕事を放って彼女に会いに行き彼女は元気を取り戻した。

 

1963年春、ハイスミスはその夫人とともにイタリアへ戻るが今度はハイスミスが酸血症をおこして嘔吐し二十年間苦しみ続けることとなる。

夫人は一か月足らずでロンドンへ戻るが「変わらず愛している」という手紙が届きハイスミスは喜び『ガラスの独房』の執筆にとりかかる。

夏、再び「ロンドンにすぐきてほしい」という夫人の電報を受け取りハイスミスはまたも作品を放って飛んでいく。

ポジターノに戻り仕事にとりかかるがうまくいかずローマに移って書き上げ、アメリカに原稿を送って戻ってきた変事は芳しいものではなかった。

しかも出費がかさみ不安が膨らんでいく。

ハイスミスはローマを離れオールドバラのキングストリートに落ち着く。

1963年11月22日、ハイスミスケネディ暗殺の報を聞き燐家に飛び込んでインガム氏にむかって叫ぶ。

アメリカはどうなっちゃったの」

 

ハイスミスの経済的困窮はどうやら免れたようだ。

クリスマス前に書き直しをすることで『殺意の迷宮』が出版できると報告され「エラリー・クイーンズ・マガジン」が短編『おかしいのは誰?』を買ってくれた。

そして『ガラスの独房』も1964年に刊行される。

 

1964年4月ハイスミスはサフォーク州アール・ソムに「ブリッジ・コテージ」を購入する。

そしてここで『殺人者の烙印』を書き始める。

この作品は(先ほど出てきた隣家の)リチャード・インガムと共同で仕事をしたことから生まれた作品だという。