ガエル記

散策

『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』アンドリュー・ウィルソン/訳:柿沼瑛子 その12

ネタバレします。

 

写真28枚目。ハイスミスとモニーク・ブッフェ。

29枚目。ハイスミス。13年間フランスに住んだが次第に嫌いになっていった。

30枚目。1994年夏のハイスミス。いい笑顔だ。

 

第27章「若い兵士と陽気な志士」1973-1976

1973年秋、ハイスミスの健康状態は悪化していた。

たばこの吸いすぎに加え朗読会やインタビューなどによる精神的ストレスからくるものでもあった。

1974年のはじめ、ハイスミスは再び現実と幻想の区別がつかなくなる。

その不安定さを『イーディスの日記』で描くことになる。

 

次の作品となる『イーディスの日記』にとりかかる前彼女の母メアリーの状態の悪化を知らされテキサスに向かったがなすすべもなかった。

その後、1974年9月30日日付の母メアリーからの手紙で母娘の関係は永久に断たれた。

そこには娘への蔑みと罵声、そして「手紙は書かないで、私は書かないから」と書かれ「母」ではなく「メアリー・ハイスミス」とだけ記されていた。

1975年メアリー・ハイスミスは火をつけた煙草を消し忘れて近くの食堂へランチを取りに行く。火は燃え上がりすべてを焼きつくした。

それ以後亡くなるまでの十七年間を老人ホームで過ごすことになる。

ハイスミスはもう二度と母親に会うことはなかったが母親の影は執筆にも生活にも影響を与え続けた。

 

『イーディスの日記』はスリラーというより一般小説に近い、とハイスミスは述べている。

実際、本作は「カテゴリーにあてはめにくい」という理由で却下されてしまう。

が、1977年、この著作が刊行されると書評は非常に好意的で崩壊しつつあるアメリカに対する洞察力を称賛する声が多かった。

『イーディスの日記』は冒頭に「マリオンに」と献辞を捧げられている。

そのマリオンは1975年から1978年の間ハイスミスの恋人だった。

ハイスミスは誰かを恋しく思う気持ちを愛していた。いわば書くために人を利用していた。だから本を書くたびに恋人を取り換えていたのだとマリオンは語る。

「パットは見知らぬ人、まったくの赤の他人のような人がお気に入りでした。彼女は恋愛という概念が必要で関係が少しでも日常化しようものなら壊してしまうんです」

「パットは綺麗好きで日に何度もシャワーを浴びていました。掃除をし洗濯をし、そしてとても吝嗇家でした。冬にスチーム暖房さえ入れなかったのです」

相変わらず朝食か前から飲み始めていたが飲酒が執筆の妨げになることはなかった。

 

ハイスミスの恋人マリオンは彼女に永遠の忠誠を誓い彼女の55歳の誕生日を祝う。

しかしマリオンはハイスミスが若い金髪の女性と恋に落ちるのを目撃する、という夢を見て動揺する。

そしてマリオンの「愛の誓い」を破り捨て「わたしを責めるべきではない。どだいそんな約束は愛に狂った状態で成されるものなのだから」というのだった。

 

第28章「恐怖の口づけ」1976-1978

1976年最初の数か月、ハイスミスの意識はは相続問題の手続きに向けられていた。

所有している国債や株式はヤドーに遺し、ノートや著作権を含む著作物に関してはキングズレーに委託すると約束した。

自分の母親や九人のいとこの名は相続人から外した。

 

そして相続というテーマをハイスミスリプリーシリーズの新作に設定する。

主人公は16歳の少年で1980年に『リプリーをまねた少年』という題名で出版される。

本作でホモエロティシズムはより濃厚になっていく。

ハイスミスはこの小説の舞台の一部をベルリンにしようと考えその街を訪れる。

そこで彼女はタベア・ブルーメンシャインと恋に落ちる。

25歳のタベアに恋したハイスミスをマリオンは嫉妬した。

 

1977年製作映画『アメリカの友人』のリプリーデニス・ホッパーが演じたことがハイスミスには受け入れ難かったようだ。「わたしのリプリーがちんぴらになってしまった」ハイスミスは「ほとんど生理的に嫌だ」と感じたのだという。

ヴェンダースハイスミスからの評価に悩んで話をしたが納得させることはできなかったという。

とはいえハイスミスは数か月後映画をもう一度観て「原作の主旨にこれまでのどの映画の演出より近づいている」と手紙を送った。

その後、ヴェンダースはこの手紙を額に入れてデスクの上の壁に掲げていた。

 

ハイスミスのタベアへの恋はつのりタベアに対し「二人の恋はどうなるのか」と手紙で迫ったがタベアからの返事は思いやりはあるものの正直なものだった。

「恋愛というものは寿命があるのだ」

 

第29章「夢を見せてくれるあなた」1978-1980

タベアとの激しい恋が終わりハイスミスの執筆は滞ってしまう。

1978年の年明けに52ページまで書き進んだ『リプリーをまねた少年』は遅々として進まなかった。

そこに登場したフランス人女性モニーク・ブッフェによってそれは解消される。

金髪で27歳の英語教師で少年のような容姿のモニークは「わたしに夢を見させてくれる娘」とハイスミスに呼ばれる。

タベアとの失恋を慰め執筆を進めさせてくれたのだ。

モニークに対するハイスミスの態度はこれまでの彼女の描写と比べとても優しく思いやりにあふれているようだ。

 

ハイスミスは1975年から保守党と当主を務め、1978年の総選挙でイギリス初の女性首相となったマーガレット・サッチャーを支持した。

フェミニズム運動ではなく強い女性としてのし上がったからというのが理由に他ならない。(実際はどうなのかと思うが)

 

1979年9月ハイスミスはスイスに家を買うことを検討し始める。

フランスの所得税を払わなくて済むからだった。

ハイスミスは知人たちから「孤独で不幸な女性だ」と語られる。

もっと金銭に対して鷹揚だったらあそこまでにはならなかった、と。彼女は家の中のものはそれもゴミ捨て場から拾ってきたものだと言っていた。

むろん出版代理店契約にも及び交渉を続けた。

 

1980年1月ハイスミスは鼻血が止まらなくなる、という症状に苦しめられ入院することとなる。

3月にスイスを訪れアウリゲノの古い家を買うことにする。

同月、ハイスミスのモンクールの自宅にフランスの税務署職員と警察によって予告なく踏み込まれ書類や資料を差し押さえられ小切手帳も銀行書類もすべて取り上げられてしまう。

この問題は一万フランの罰金を支払うことで最終的に決着した。

すでに悪くなっていたフランスへの関係は「ちゃちな悪党ばかりのこんな国」というハイスミスの罵りで終わった。