ガエル記

散策

『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』アンドリュー・ウィルソン/訳:柿沼瑛子 その13

ネタバレします。

 

 

第30章「扉の向こう側」1980-1982

1980年7月ハイスミスがモンクールの自宅に戻ってほどなく彼女はまたも神経衰弱症状が現れはじめる。

「憎しみや怒りに支配されていながらどうやって健康的な生活なんて送ることができるのだろう」

仕事ができなくなってしまうのは自分には何も残らなくなってしまうのと同じなのだ。

不吉な廃屋をめぐる小説「黒い家」のアイディアも思いつきその家は「死とセックス両方の象徴」であった。

 

1980年10月ハイスミスは長編小説『扉の向こう側』の執筆にとりかかる。キリスト教原理主義者と自由主義思想との間に起こるべくして起こる対立を書こうとした。

ハイスミスが近年のキリスト教原理主義者の台頭について分析するアイディアを口にすると友人たちはこぞって喜びを表明した。

「あなたにはぜひとも”ボーン・アゲイン(衝撃的な体験によって信仰にめざめること)”というテーマをつきつめてほしい」

アメリカにおけるキリスト教原理主義者には長い歴史がある。

1846年、コロラド準州の知事ウィリアム・ギルビンはアメリカが最終的に目指すべきは「世界を産業で征服することである」と宣言し、それをかなえるのに必要なのはキリスト教信仰と富の創出というふたつの目標であると言明した。

それからちょうど百年後原理主義者たちはアメリカ人のナショナリズムを巧みに利用して共産主義を悪魔に資本主義を神に結び付けた。

『扉の向こう側』で原理主義者の父親が保険や退職者用金融商品のセールスマンとしたのは偶然ではない。父親の信仰も職業も空虚な夢を売るという罪悪だと彼女はみなしていたのだ。

『扉の向こう側』は『イーディスの日記』と地続きの小説でありイギリスで出版された時には好意的な評価を受ける。

文筆家のホリー・エリイはこの本はむかつくような不安や先行きの見えない不透明さにおおわれているようだ、と指摘し「この本が言わんとしているところは人生は行き当たりばったりの売春家業のようなもので危険でいかがわしい快楽でありどこまでも不確かなものだということである」と書いた。

イギリスでは称賛を浴びるハイスミスの小説はアメリカ本国ではせいぜい八千部どまりで出版自体やめる潮時と考えられていた。

 

ハイスミスはスイスのアウリゲノに住み静かな生活を送ったが近所に住むエレン・ヒルとの交際が復活したことで彼女はまたも彼女の支配下に置かれてしまう。

そして『扉の向こう側』の取材のためアメリカへ戻りペンシルベニアの小さな町を眺め「いかにもあめりかという感じの風景だね」と言ってハイスミスは車の中でひとり泣いてしまう。

同行者のふたりは驚いたが声を掛けずにいた。

彼女はアメリカに住んでいた方がずっと幸せだったのではないか、と語られている。

 

ハイスミスは住みづらくなったフランス・モンクールの自宅をついに売却しスイスに永住すると決める。

そして彼女を慰めたモニーク・ブッフェとの関係は友達となった。

 

第31章「奇妙な内面世界」1982-1983

1982年ロンドン・ウィークエンド・テレビジョン制作のアート系文芸番組『サウスバンクショー』で『パトリシア・ハイスミス 殺人の才能』という五十分間の映像に登場した。

番組はメルヴィン・ブラッグによるインタビューとジョナサン・ケントリプリーを演じる『贋作』の幾つかの場面をドラマ仕立てにした映像によって構成されていた。

しかもイギリスに到着したハイスミスリプリーがぴったり跡をつけていく、という設定で撮影したのである。

ハイスミスは文字通りリプリーの胸ぐらをつかんで壁に押し付け問いただしたのだという。

編集者のアラン・ウルマンが仕方なく認めるとハイスミスは「彼は完璧よ」と答えたのだ。

リプリーを演じたジョナサン・ケントハイスミスに気に入られ彼もまたハイスミスが大好きだったようだ。

 

この章で「今にして思えば、彼女は高機能アスペルガー症候群の一種だったかもしれない」と語られる。

ひとつの病状ですべてが語られてしまうのは奇妙だが確かにここまでのハイスミスの状態を思い返すとそうだとしか思えない。

しかしこの時期にはこの言葉ズバリはなかったのではないだろうか。だから「今にして思えば」なのだが。

ハイスミスは思ったことがそのまま吐き出されてしまうのだ。

 

1983年6月、ハイスミスは次の長編『孤独の街角』のプロットに着手する。

 

第32章「仕事は最大のお楽しみ」1983-1986

1983年ハイスミスは『妻を殺したかった男』の映画化について打診を受ける。

ハイスミスは契約を結び、三十年以上も前の元婚約者であるマーク・ブランデルにその脚本化を頼み先に自分で脚本家報酬として八千ドルの小切手を送った。

結局映画化は頓挫してしまったのだがハイスミスは返金は求めなかった。

 

ここでまたハイスミスの新たな面が語られる。

1984年、ベッティーナ・バーチはインタビューのためにアウリゲノを訪れる。

ハイスミスは黒の男物のローファーに男物のジャケットを着ていた。

彼女は女性誌の低俗さを馬鹿にし女性解放運動に厳しい意見を持っていた。

ハイスミスは女性について、自分はまるで別ものであるかのように語った。まるで自分は女性ではないみたいに。何世紀にもわたって女性は足枷をはめられてきたから常になにもできないし女性の考えなど無価値でなんの野心も持ち合わせていない、なって言っていた」とバーチは回想する。しかしバーチは「それでも私は彼女が女性嫌いだとは思わない。たぶん彼女は女性を愛しすぎたのだと思う」と。

これにはちょっと参った。

これまでずっとハイスミスの軽々しい女性遍歴と強い女性嫌悪を「いかがなものか」と思い続けてきたがそれは間違いだったのか?

ハイスミスは生まれるのが早すぎたのか。

そんなことはないだろうが今存在するのならそんなに突飛な女性ではないのではないか。

 

1984年トルコイスタンブールに到着したハイスミスはいつもの秩序への執着はどこへやら、たちまちこの都市の混沌とした官能の喜びに魅了されてしまった。

一方彼女の吝嗇もまた語られる。だがそれは単なるケチではなく浪費を嫌がっていたのだ、とも言われる。

 

ハイスミスは一時期サッチャーのような右翼政治家に肩入れしていたこともあったが1984年11月のアメリカ大統領選挙ではレーガン大統領を批判した民主党ウォルター・モンデールに投票した。

だがモンデールは敗北しハイスミスは合衆国のパスポートをもっているのが恥ずかしいと述べている。

 

本章では彼女の魅力だけではなくどんなに嫌な印象を与えた女性だったかも語られている。

しかしもう怖れることはない。

ハイスミスは片方からは尊敬され片方からは眉を顰められるのだ。

 

1986年ハイスミスは肺癌がみつかり腫瘍切除の手術を受ける。

16歳の時から欠かさず吸っていた煙草をきっぱりとやめた。

術後三か月後、病の再発を怖れていたハイスミスはロンドン、ブロンプトン病院で検査し再発はないと知り安堵した。