ガエル記

散策

『パトリシア・ハイスミスの華麗なる人生』アンドリュー・ウィルソン/訳:柿沼瑛子 その14

ネタバレします。

 

第33章「見えない最期」1986-1988

パットはスイス・アウリゲノの寒くて暗い家から移ることを考える。

サンタフェかメキシコかモンクールの元の家に戻ることも考慮したが実現しなかった。

街中に住むことは無理だった。建築家のトビアス・アマンがロカルノ近くの村テニャに売り地があるのを勧めハイスミスもここが気に入って「カーサ・ハイスミス」の設計にとりかかる。

(「ロカルノ」のwikiを見たら「ハイスミスがこの近くに住んでいた」と記されていて感動)

 

その家は彼女の人柄が反映されているという。

外から見ると殺風景だが裏に回ると一面のガラス張りで室内から美しい谷が見渡せる。

彼女は常によそよそしく握手も好まなかった、が、ひとたび彼女のやり方で魅力的にもなれた、とアマンは語る。

「家が完成しても二年間彼女はあれやこれやと文句をつけてきた。だがわたしはしまいに彼女は仲間がほしいんだと気づいたよ。月に一度は家を訪ね一緒にウィスキーを飲んだ。彼女はいつもとても良いウィスキーを出してくれるんだ。自分はもっと安いのを飲んでいたよ」

(もしかしたらアメリカ産だったというのではなかろうか)

 

ハイスミスは「死」について考えている。

彼女を苦しめ続けた母メアリーは1991年3月に亡くなる。95歳だった。

それはハイスミス自身の死のわずか四年前だ。

 

ハイスミスPLO批判はアメリカでの存在を危うくするものだった。

ヨーロッパで出版した『扉の向こう側』の献辞がそれに触れるものだったために出版社側は彼女に断った上で削除したがハイスミスはそのことに怒っていた。

「ここで彼女が誤解している」もしくは「忘れている」のだが「彼女が削除して、と言わなかったら決してそんなことはしなかった」と書かれているけど、いや誤解じゃなく「削除させられた」と怒っていたのではないかと思えるんだが。

 

1987年夏、リプリーシリーズの映画化をめぐる争奪戦から自らの権利をまもるためにハイスミスはまたもや心を悩ませることになる。

 

この年、ハイスミスは新たに契約したアメリカの出版社アトランティック・マンスリー・プレスの編集担当者ゲイリー・フィスケットジョンと会う。

ゲイリーによるとハイスミスは「ずっとヨーロッパに暮らしているのに根はアメリカ人気質のままだった。彼女は南北戦争マニアでわたしは関連書を送ってやった。ふたりとも酒飲みなのですぐに打ち解けたんだ。いつも顔を隠すように髪の毛を垂らしていてユニークだった。とにかく歯に衣着せぬ人だった。彼女は人間を本能的に見抜く優れた直感を備えていて魅力的だった。

それにとても優しい人でわたしの息子が生まれて以来毎年カードを送ってくれたんだ」という人柄だったと語られている。

 

ハイスミスはロンドンでダンカン・ハロウェルのインタビューを受けている。

そこで最後の恋は「七年前、ドイツで」と答えている。タベア・ブルーメンシャインのことだろう。愛とは一種の狂気、だと答えているのだがこのインタビューが彼女の生前に発表されることはなかった。

彼女はこのインタビューでも彼女独特の個性を見せているという。

絶えず警戒している茶色の目、人間的な優しさの欠如、極度に物惜しみするようなところがある、どんな些細なこともみんなため込んで作品につぎ込むためにとっておくのである。

 

そしてここでも会う前にはとても怖い人だと思っていたとターニャ・ハワーズによって語られる。

「でも知ってみると面倒見がよくて心が温かい人だとわかりました。わたしの息子に手紙をくれプロの作家として息子を励ましてくれたのです。

その存在感は強烈でした。彼女はいまだじゅうぶんに評価されていない天才だったと思います」

フィリス・ナジーは「彼女はこれまで会った人の中で一番繊細で傷つきやすく不安定な人だった」そしてナジーが劇作家として世に出たことをどれほど喜んでくれたかと語った。

 

スイスに戻ったハイスミス切り裂きジャックに関するエッセイを書き、グリーンウッド墓地に関する記事も書いた。

死は明らかに彼女の心を蝕んでいた。

「数年のうちに私はあそこに行くのだと思った。わたしは火葬にしてほしいと思っているから灰は許可されているところならどこでもかまわずまいてくれればいい」

 

第34章「なじみの亡霊」1988

しばらく前からハイスミスリプリーシリーズの第五作の執筆を考えていた。

1986年には美術ディーラーか収集家が登場する構想を書きためていたし、1987年には新作を必ず書くと明言している。

最終的に1991年に『死者と踊るリプリー』として完成した。

数々の欠点がある作品として語られるが最後までリプリーは逃げ続ける。

 

作品の中にはほとんど政治的な問題を取り入れなかったと言われるハイスミスだが現実に起きているアラブ・イスラエル紛争に対してはかなりの見解を述べイスラエルに対する憤りを表明していた。

そしてイスラエルに対して多額の援助をしていること、アメリカ国内のアラブ人についての否定的報道を許していることに対してアメリカ政府を非難した。

 

1988年6月、ハイスミスはイギリスチャンネル4「アフター・ダーク」というテレビ番組で「殺人について」のトークショーにゲスト出演する。

「テーマ」は「殺人事件から生き延びるには」だった。

いつもインタビューには最小限にしか答えないハイスミスが娘を亡くした父親に臨床的ともいえる口調で質問をしていった。

 

ハイスミスは死後の世界を信じておらず体系化された既存宗教を嫌っており、人生は本質的に無意味なものと考えていた。

その年はずっと自分が死んだ場合の身辺整理に励んだ。

そして残された時間がどれほどであれ人生を最後まで味わいつくそうと決めていた。

 

7月には画家のバフィー・ジョンソンの招きでタンジールを訪問した。

『死者と踊るリプリー』の舞台にするためでもあったが彼女はタンジールの異国情緒を楽しんだようだ。

 

自宅に戻った後、ハンブルクへ旅立ち女性のためのフェスティバルで朗読をする。

ここではグドルン・ミュラーという画家と空港で落ち合いホテルへ向かうが用意されていたシャンパンは飲まずハイスミスは持ってきた安物のウィスキーをグラスになみなみとついで二、三杯も飲んだという。

しかし彼女はまったく酔っていなかったらしい。

グドルンはハイスミスと15年も交遊したが彼女の実態がまったくわかっていなかったらしい。

愛情といらだちと驚きと当惑が入り混じった気持ちで彼女を回想したのだった。

「彼女と話すのはとても難しかった。自分の気持ちを見せることはなかったし、彼女が私をどう思っているのかまったくわからなかった」

 

第35章「芸術は常に健全とは限らない」1988-1992

1988年ハイスミスはスイス・テニャの新居へと引っ越した。

山々の眺望は壮観だったが「アメリカのロッキー山脈が偉大な老爺だとすればアルプスの山々なんてほんの青二才だ」とハイスミスは言っていた。

地下室は核シェルターになっていた。

パットはここに暮らした六年間で多くの隣人たちと親しく交わったという。

長く彼女を支配し続けたエレン・ヒルとは縁を切った。

 

ハイスミスは新居祝いのパーティを開くがスーパーでの買い出しにもパニックとなりもらった高価なバラの花束の処置もできずにいた。

床に新聞を敷いてプラスチックのバケツに美しいバラをつっこみ葉っぱをむしろうとしたらしい。

この章に描かれているのはハイスミスらしい人間性でもあるが同時に高齢になった人独特の思考や行動にも思える。

1990年マーカー氏はインタビューの為テニャのハイスミス宅を訪れ一週間滞在する。

午前二時、突然出された食事は茶色いソースにサラミソーセージみたいなものだったのでフォークで突き刺す皿から飛んでいってしまったという。それは”骨”だった。

肉は飼い猫が食べマーカー氏には骨が出されたのだった。

彼女の香水が猫にいけないというのでシャワーを浴びると「水は節約しないとね」と言われ結局彼女の仕事は果たされなかった。

しかし彼女が去った後、手紙が届き「とても楽しかった、最高のお客様だった」と書かれていた。

なんだか小説みたいでもある。

 

ハイスミスの体調は優れなかった。

動脈閉塞症を抱え、歩くのに難儀し痛みに悩んだ。

1992年彼女は左脚の大腿動脈を1ミリから6ミリに広げる手術を受ける。

手術は成功しハイスミスは「わたしはついてるわ」と答えた。