
初読み(聞き?)です。
ドラマなどは一切知らず。
読んだ理由は「昭和経済高度成長期」の物語を知りたくなったからです。
ネタバレします。
とはいえ、この物語についてどれほど感想を書けるか。
とりあえず思ったことをつらつらと。
まずは冒頭から描かれる華麗なる一族である万俵家の新年三日目の晩餐会の様子から大苦笑してしまう。
本気か?
いやいや、今現在読むから私も笑ってしまうのだが当時読んでいたら憧れていた、のだろうか?
そしてその描写はその後の多くの作品に大きな影響を与えたのではなかろうか。
(『悪徳令嬢』的なものがその伝統を受け継いでいるように思える)
日本のお正月でありながらカクテルドレスをまとった女性たちとダークスーツの男性たちがオードブルを家父長である万俵大介がフォークを取ることから始まる。
大介は末の娘に「マドモアゼル」と呼びかけフランス語で「今日のスープの味はいかがですか」と尋ね娘もフランス語で答えた後、関西訛りの言葉で「いやだわ、お父様」と甘えてみせるのである。
この不思議世界の幕開けである。
もうなんだかすべての出来事がふざけているのか真面目なのか。
時は1960年後半の時代。
その時代を私自身生まれてはいたがこんなにも恐ろしい時代だったのかと本当に異世界のような気さえする。
いやこれはこうした上級国民の生活なのだとは思うけれど庶民もまったく関係なかったとはいえないのだろう。
まず世界は家父長制度によって動いている。
万俵大介は一族の長であることに一ミリの疑念も恐れも抱いてはいない。
悠然とその地位に君臨する。
彼は公家の出の正妻を持ちつつ、40代の美貌の才媛女性を愛人として一つ屋根の下で妻妾同衾をしてはばからない。
どころかディナーの席は日替わりで正妻と愛人が座ることがルールとなっていてその夜のベッドの相手もそのままだという。
その愛人である高須相子はもともと万俵家の五人の子供たちの家庭教師だったのだがその美貌と才能が大介氏の気に入り愛人となったのである。
このこと自体が今の感覚では「キモスギル」のだが子供たちにとって父親の判断は絶対であり幼い時から相子が自分たちの母の席に日替わりで座ることは当たり前であり成人してからは愛人であることも黙認してきたのである。
さらに五人の子供たち(男二人、女三人)は父・大介とその愛人相子の目論見通りに閨閥結婚の駒となることが運命づけられている。
長男長女そして次男まではその通りに進んだが次女の二子(つぎこ)に至って反旗が翻されることとなる。
作者の山崎豊子氏がどのような思想の方かは知らないがこの物語が悲劇となって終わることが家父長制度への審判であるのだろう。
富豪ではあるものの万俵氏の経営する阪神銀行は業界ランクは10位。
まだまだ大介の野望は成長著しいのだが最後の最後にこれまで人間を食って生き延びてきたかのような万俵大介がさらに大きな化け物によって食らわれてしまう未来を予感させて終わるのだがその理由が孟子の言う
「天下を得るには一不義を成さず、一無辜を殺さず」
に反したからだというのである。
万俵大介は「長男が自分の妻と自分の父の間に作られた子ではないか」という疑心を抱き続け、そのために長男をいびり続け結果的に自分の銀行を大きくするための捨て石として長男の事業を潰してしまう。
長男・万俵鉄平は容姿も才能も実力も情熱も人間性にも優れた申し分ない後継者だったにもかかわらず父親・大介は勘違いの私怨によって最も重要な持ち駒を自ら死へと追いやってしまうのだ。
鉄平の自殺の原因がなんだったのか、と言う内容が小説にはあからさまには語られないがその自死の直前に父、万俵大介を思い
「自らの野望を遂げるためには霊前と金の力で自分に都合のよい正義を作り変えることのできる男、今度もきっとそう試みるだろう、だが今度は・・・」
と考えていることから家父長制度からどうしても逃れられないことに絶望して、なのだろう。
結果、息子の自殺から万俵大介の人間性が問われることになり、万俵家はやがて破滅してしまうのだ。
さらに鉄平が可愛がっていた次女・二子が嫌がっていた閨閥結婚の破棄へとつながるのも鉄平の思惑の一つだったのだろうか。
とはいえ自殺と言う形でしか(つまり切腹的な)上に物申すことができない、というのがなんとも虚しい。
二子の恋人であり同志でもある一之瀬四々彦とアメリカで起業して父を見返す、というような展開はどうしても無理だったのか、それほど家父長制というのは重いものなのだということなのだろうか。
確かに「鉄平の死」こそが大介の罪を現しているのだ。
次の段階、この作品で衝撃だったのが「男は仕事、女は家庭」という図式が完全だったと。
「昭和の小説なのであたりまえじゃないか」と言われそうだが、まさかここまで完全だとは思っていなかったのだ。
1960年代後半の時代とはそういうものだったのだろうか。
その代表的存在が高須相子である。
アメリカに留学した彼女はアメリカ人男性との結婚離婚を経験しその英語力を買われ万俵家の家庭教師となる。
だが彼女の才能はそこまでにとどまらずやがて万俵家を取り仕切り閨閥結婚を仕組む参謀となり自らの能力で上流社会の人々と渡り合っていくのだ。
ここまでの才能を持ちながら彼女は結局万俵大介の愛人でしかない。
結局は正妻というだけで何の才能もない(と言われている)弱々しい寧子はそのまま妻の座に残り、美貌の才媛相子はわずかの金で捨てられてしまう。
なぜ彼女がそれ以上の野望を抱かないのか、現在の私にはよくわからないのだがそもそもこの物語に女性の実業家はまったく登場しないのだ。
60年代後半、日本社会には女性の実業家は皆無だったのだろうか。
教師や銀行員や様々な職業婦人はもちろん存在する。
だがそれ以上の重役、社長の女性は一切出てこない。
だからこそ高須相子はその才能を大介の愛人として閨閥策略師としてしか活躍できなかったのだ。
物語の中で相子が言われるのは「そんなに才能があるのなら起業すれば?」ではなく「早く良い男性を見つけて結婚すれば?」なのだ。
それが自分の行く先でしかないのなら優秀で魅力的な万俵大介の片腕になりたい、というのが相子の考えだったのだ。
しかしそれはそのまま彼の愛人になることでもあった。
そして万俵大介がさらに大きな銀行頭取となった時「身の回りを清潔にしなければ銀行家として危うくなる」という理由で捨てられることとなる。
重役とは言わないまでも秘書と言う形でさえあり得なかったのだろうか。
新しい女性の形として描かれる若い二子も結局は一之瀬の後を追ってアメリカへ飛び彼の妻となる、ところで幕は閉じる。
当時としては型破りの希望としての描写だったのかもしれないが、なぜ彼女も万俵家の女性として起業しないのか?よくわからない。
たぶんアメリカへ渡って時が経てばきっと二子はなんらかの職業婦人になったのではなだろうか。
しかし相子氏は・・・いやきっと相子氏も数年後、50歳にして大活躍したのではないだろうか、と期待する。
だとしてもこの『華麗なる一族』1960年代後半の女性たちはあまりにも家庭の中にいるしかない存在であった。