
前回、冒頭ですぐ観るのが耐えられなくなってやめたのですが新旧映画作品比較のため決行しました。
なぜ観ることができなかったのか、わかりました。
が、観たことで岡本喜八版がさらによくわかった気もします。
なのでこの記事では原田眞人版と岡本喜八版そして原作の半藤一利の思いを考えてみたいと思います。
ネタバレします。
映画原田眞人版と岡本喜八版は同じ半藤一利による『日本のいちばん長い日』を映画化しているので展開もセリフもよく似ている。
つまり半藤、岡本、原田の三人は同じ話を作っているのだがそこに込められた思いが三者三様、まったく違うのである。
この三人で一番の先輩は岡本喜八なのだ。
半藤一利1930年生まれ。
原田眞人1949年生まれ。
これは昨日の記事にも書いたが岡本喜八は戦争期をほぼ成人して体験しており、半藤氏は11歳から15歳の間、つまりほぼ少年期での体験でいわば様々な知識は後々に得て考えたものであるだろうし、原田氏は戦後4年目での誕生なのでもう戦争というものは「昔の話」である。
半藤氏のノンフィクション『日本のいちばん長い日』を読むと戦争への憤りと日本という小さな国への皮肉な悲しみと笑いはあるものの若き将校たちの一途な思いと行動の描写はどこか共感している憧憬というものさえ感じさせる。半藤氏自身は戦争に対し厳しく批判されているのに本作の文章はそんな単純なものではない思いがこもっている。この両面性はなんともいえないものがある。
それが岡本喜八によって映画化されると日本は、というより「大日本帝国」は途端に馬鹿騒ぎに戯画化される。
いわば「戦争に一所懸命になって死んでいっている日本人をこき下ろし大笑いしている」のが岡本版なのである。
爆弾を落とされ、さらには餓死するほど飢えても我慢しさらには特攻しろと言われそのまま死にに行く者を皮肉っているのだ。
この皮肉は相当きついもので観る者によっては「こんなに嘲笑していいものだろうか」となるかもしれない。
しかしこれは嘲りと共に怒りであるのだ。その凄まじさに目を奪われる。
それが原田版になると一種のシチュエーションコメディとして形式化されてしまう。
今回観て「ああ、これは『シン・日本のいちばん長い日』だったんだ」と気づく。
面白おかしく『日本のいちばん長い日』をリメイクしたのである。
が、そこにはもう岡本版のひりひりする泣き笑いはない。
そして「軍人さんへの憧れ」は何故か半藤氏作品に近づいている。
クリエイターはどうしてもそれを演じる俳優(キャラクター)の容姿や立ち居振る舞いに自分の思いを乗せてしまう。
本作の比較をするのなら阿南をはじめ軍人たちの描写を見れば一目瞭然である。
阿南惟幾がどんな人物だったのか、まったく知らないが写真を見るだけだと三船敏郎とも役所広司とも似ていない。
他の配役は本人に似ているような俳優を選んでいるように思えるのになぜか阿南だけはそれぞれの監督の希望が込められているようだ。
岡本版での三船はそのイメージ通りの頑健な軍人で戦争終結がやむを得ないとは理解してもやはり軍人としての態度を崩さない。
皮肉に満ちた岡本版としての阿南である。
それが原田版の阿南は実際の彼がそうであったと記されるように暖かで優しかった夫であり父親であったという面を強調したためによくわからない人物になってしまったように思える。
というか、当時の軍人を共感できるように描写するのは無理だったのではないか。
阿南に焦点を当てずむしろ何もわからず奔走する若い将校たちを主人公にして阿南を見る、という形にしたほうが良かったのではないだろうか。
「シン○○」という形式は結局「今風に解釈してみる」という遊びでしかない、と私は思っている。
半藤原作、岡本映画のふたつはそれぞれの見方を強烈に訴えたが原田映画は「シン」でしかなかった。
そういう映画作品であった。