
字の本を久しぶりに夢中になって読んだ気がする。
いや、先だって”パトリシア・ハイスミス”本を読んだのだった。
今回は”柳田國男”について書いた本だ。してみると”誰か”について書いた本なら夢中になれるのかもしれない。
最近これまでになく柳田國男に興味を持っている。そんな時に目に留まったのが本書だった。古い本ではない。河出書房新社2022年初版である。
不思議に思ったが、かなり以前(1983年)に秋山書店より刊行された『柳田國男随行記』を改題の上復刊したものらしい。
嬉しいめぐり逢いである。
ただ読み飛ばすのは惜しく、ここに書き記してみよう。
ネタバレします。
じつはちょっと表紙買い(図書館借りだが)でもある。惹かれた。
柳田氏の顔など知らなくて検索した。やや西洋人的美化が入ってる気もするがそれでもなかなか良い。
開くと見返しに
「一週間も一〇日間も一緒に起居できるなどとは、東北の草深い百姓の子倅の夢想だにできぬことであった(本文より)」
とある。
なんかすごく良い。たまらん、というやつである。萌え、というのでもある。
本文を読んで感動したのは随行者今野圓輔氏の佇まいである。
この時今野圓輔氏は27歳。柳田國男先生は66歳。
年齢だけでもかなりの威圧感だろうが今野さんにとって柳田先生は先生の先生で大先生なのである。しかも「千年に一度現れるかどうかの学者なのだ」と言われていてその緊張感は凄まじいものだったのではないだろうか。
文章の端々にその敬意が現れている。
わたしは極度の師匠と弟子萌え人間なのだがそうした関係性が希薄になってしまった昨今ほとんどそうした感激を得ることが無かった。
ワンパンマンとジェノスくんくらいだ。
ということは私はこの本をワンパンマンとジェノスみたいな気持ちで読んでいたのかもしれない。
確かに柳田先生はワンパンマンなのかもしれない。
とにかく始めよう。
「はじめに」
この文章は昭和57年7月25日に書かれている。そしてなんとこの『はじめに』を書かれた一週間後に逝去されているのだ。
時に68歳。人生の最期で今野さんは若かりし時27歳の自分が大先生の17日間の旅に随行した思い出を記したのだ。
それは『薔薇の名前』に描かれたアドソとバスカヴィルのウィリアムを彷彿とさせる。
それっぽく書くためにあえてここから今野圓輔氏を圓輔くんと書いていこう。
当時日本はアメリカ軍の焼打ちで圓輔くんの家は丸焼けにされてしまったらしい。わずかな疎開荷物のなかに「柳翁(りゅうおう)随行記」と題したメモばかりが残っていたという。
柳翁とは俳号を柳叟と号した日本民俗学の創始者、柳田國男のことである。
柳田先生が昭和16年(1941年)に九州までの講演旅行に出かけ、圓輔くんがお供をした記録がこの随行記なのである。
今野氏によると柳田氏の旅の随行記という記録は誰からも発表されていないという。
そういうこともあってこのメモを本にされたのであろう。
自分自身の死の一週間前ということもあり「すでに身も心も老いてエッセイにまとめる気力はもうない」とされている。
そのままの形で記録として残された、ということなのだろう。
素晴らしい本を遺産とされたと思う。
7時半ごろ、柳田國男先生はひとりで小田急電車から降りてこられた。
とある。
私はこの本を絶対映画化してほしいと一読して念願しているのだけどこの登場シーンがまずよい。
映画の始まりとして完璧ではないか。
和服に褐色のラクダの襟巻、ソフトに白足袋、持ち物は皮のバッグ一つだけ。
すばらしい。
この後、先生は窓際の席に寄ると、信州辰野まで行くという褐色の背広の大きな男が大カバンを下げて先生の側に腰を掛ける。
映画化決定である。
こんな風ではまったく先に進まないが情景が眼に浮かぶようで多くの小説でもこんなに描けていない気がする。
大男が腰を下ろすや大きな声で汽車の混雑することなどを先生に話しかけ先生が嬉しそうににこにこして話し相手になっておられる。
圓輔くんは先生にサクラ(タバコ)を二箱さしあげる。
まず一本おつけになって(こうした文章がとても良い)「君は何の新聞?」と圓輔くんに訊く。都新聞と東京日日新聞。「私は朝日と読売を見てきたんだが」先生は腰かけてもソフトを被ったままである。
どんよりと濃い曇り空である。隣の線路に中央線の急行がとまりまた発って行く。
「甲府の弁当は、とてもまずいからパンを食べよう」
甲府の弁当、まずかったのか。(柳田先生の弁ですよ)その代わりにパンを食べる、というのはハイカラではないのだろうか。
この時の圓輔くんは昨夜ほとんど眠っていないらしい。
日米交渉難航で学校が三か月繰り上げ卒業となったが卒業論文作成が間に合いそうにない状態なのだ。それなのに17日間の随行旅行を引き受けたのだ。
いや確かに柳田先生の随行ができるのに断るわけはないか。
11月13日出発で17日随行ならちょうど11月いっぱいだ。
大晦日の卒業に卒論は間に合ったのか。
さもあればあれ。汽車は西へ動き出した。
先生は「五島では最近二度も船が沈没してしまったのであきらめるしかないが寄りたい気持ちもある」ということを話される。
二度も沈没とはおそろしい。
圓輔くんも「もしものことがあったら私は切腹しなければならない」という。まあ、冗談で今でもいうかな?
圓輔くんは昨夜寝てないのであくびと戦っている。
国分寺駅を通り過ぎると窪地が左手に見え、水源についての記述がある。
立川を過ぎるとようやく稲を刈る人々の様子が見えてきて先生は風呂敷から小さな包みを取り出し資料カードを取り出してしきりに書き込んでおられる。何かおまとめになるのでもあろうか。
その後「日本切支丹宗門史」をはじめから読み始める。
八王子にとまりホームを女工風の娘が揃って歩いていく。
その様子が普通の娘と同じだという。
汽車が昔の甲州街道にかかる。昔ったって御維新までだが、と先生。ずいぶん狭い。これが”上野の宿”だ。
巾は三尺ほどだという。
旅は始まったばかりのせいかふたりの心に浮き立つものがあるように感じられる。
先生の言葉はなんでも為になり面白く思われる。
圓輔くんが「リンゴでもむきましょうか」というが先生はリンゴにもこだわりがあるらしくう甲府に行ったら食べよう、と答える。
が、リンゴは姿を現さず、圓輔くん持参のリンゴは苦心して手に入れたものらしい。
甲府を過ぎて「じゃ、リンゴでも食うか」と言われ剥いてさしあげた。
先生からこの辺一帯の歴史地理の詳しい説明を伺う。
「あの辺を武田信玄がいつも通ったのだ」
上諏訪の手前で持参の食パンにマーマレードをいっぱいつけて先生と半斤食べる。
が、先生はマーマレードのついたパンを持ってうしろの席にいる男の子にやってきて席に戻ってにこにこしているのだ。
今日はここまで昭和16年でマーマレード付き食パンをもらえた男の子は美味しかったのではなかろうか。
汽車の旅で食パンにマーマレードはお洒落である。