ガエル記

散策

『柳田國男先生随行記』今野圓輔 その2

ネタバレします。

 

霞と靄と霧と

 

圓輔くんはここで「霞と靄と霧の違い」を柳田先生に問う。

柳田先生の答えは「霞は春に言うので秋から冬にかけては霧と言うね。靄というのは古くは出てないから近い頃の言葉じゃないかな」というものだった。

圓輔くんは「山の中腹にうっすらとたなびいているのが霧とは変です」と言い返すが先生はおかしそうに笑っているだけだった。

今検索すると水滴が正体で比較的軽いのが靄で視界が悪い方が霧、霞は煙や塵が交じっている状態で気象用語ではないとある。

 

塩尻駅に下りる。

柳田先生は心持体をそらせすっすっとホームを歩いて行かれる。袴の裾、純白の足袋に草履、下半身の後ろ姿はどこの高貴のお方かと思われるが上半身はどこの田舎爺かと言いたいようでその調和は妙というしかない。

その上半身というのは褐色の無粋な襟巻、古びたよれよれのソフトを阿弥陀にかぶり、トンビを着ている、と書かれている。

トンビというのがわからずこれも検索した。イイ感じではないか。

ますます好きになる。

柳田國男氏は民俗学に入る前は地位高い官界生活をしていて圓輔くんにはそのことも憧れであるようだ。

乗り換えの名古屋行きの汽車を待つ間、圓輔くんは先生の話を聞いている。

乗車すると先生は岩波文庫をとりあげ圓輔くんはとろとろ二、三分眠ってしまう。

 

御供のむつかしさ

圓輔くんは佐藤信彦先生から「柳田先生は先年に一人出るか出ないかくらいの世界の碩学である」と言われていた。

その方の御供旅行を前にして佐藤先生の門を叩き教えを乞うたのだ。

「とにかく邪魔にならないことだ。言いつけられたこと以外はしないことだ。君のついていることがちょっとでも先生の気になったらもう君は落第なのだ。単なるカバン持ちであることをくれぐれも忘れてはならない」

ところが柳田先生はそのカバンすら持たせてくれないのだった。

 

宮ノ越を過ぎふたりは石屋根の石の大きさについて語り合う。

坂下につく。

セーラー服にモンペを吐いた女の子たちがホームを歩いていく。

(もうモンペをはいているのか。この地方ではずっとはいているのか)

四時を過ぎ、次第に薄暗くなる。

すっかり夜になって名古屋に着く。

ホテルに泊まる。

「ただ一つの心配は召集がくるかもしれない」とあるのは圓輔くんへの兵士召集なのだろうか。

食事は材料不足ながらおいしかった、とある。

昭和16年11月なのでまだ太平洋戦争は始まっていないがすでに食糧不足だったのだろうか。

 

奈良を経て京都へ(第二日目)ー昭和16年11月14日ー

27歳の圓輔くんは67歳の柳田先生の様子を見て「老人らしい感じは微塵もない」と感心しきりだ。

昔の話とはいえ圓輔くんの祖母は77歳で二里近い距離を歩いて往復している、というのだからそこまで感心しなくても、とは思うが御供として先生が丈夫だと確かにほっとするだろう。

そしてどうしてもカバンを持たせてくれないw

 

圓輔くんも日米開戦が近づいてきているのを感じている。まだ中学に入らぬ頃から日米交戦論が喧伝されていたと書かれている。となれば昭和が始まった頃からすでに戦争は皆の意識にあったということか。

そんな思いもありながらふたりは快晴の伊勢路をひた走る。11月というのにまだ稲田は手が付けられていない、とある。なぜなんだろう。

伊勢若松、白子を過ぎて稲刈りの真っ盛りとなる。

米不足の折で良い気持ちと書かれている。

ここでも「屋根が瓦葺でトタンは少ない」という話が出る。

柳田先生の弟(松岡静雄大佐)はチェコスロバキアで人造スレートを見て日本で売ることにしたという。

話をしている間にふたりは乗り換えるのを知らずに引き込み線へ連れていかれてしまう。

先生が「なんとかならないかね、君」と駅員に話しかけるが一瞥もくれない。

圓輔くんはどうするすべもなく先生の後ろに立っているだけであった。(良いところ見せられなかったねえ)

なんとか大阪行急行に駆け乗ることができた。

「旅行第二日目の赤ケットであった」

と書かれていて何のことかと思ったら「田舎者」という意味なのだね。「赤ゲット」と書くことが多いようだが。

 

木曽で鮮やかだった紅葉が伊賀路に入るとそうでもなくなってくる。時期を過ぎたのだろう。

耳無山が見え池畔の櫨紅葉が非常に美しい、とある。(耳成山なのだろうが耳無山と書かれている)

奈良図書館の野村伝四氏を訪ね持参のパンとリンゴを食べ奈良公園を散歩する。雄鹿が甲高い声で鳴くのをはじめて聞く。

先生もこんなに多くの鹿が集まっているのは初めてだったらしい。

エナガについて先生と野村氏が話し合っている。

都ホテルはそれほど飯が美味しくないしコーヒーも美味しくないから京都ホテルに泊まってみよう、となる。

が、京都ホテルのコーヒーも美味しくなかったらしい。圓輔くんに言われているのだからやむなしである。

これも戦争前のせいなのか。

夕食後先生の勧めで圓輔くん一人で京都の街を歩く。

 

京都から神戸へ(第三日目)-昭和16年11月15日ー

朝六時起床。

八時二〇分、平山敏治郎氏来訪。九時二〇分、学校から迎えの先生が来て一〇時高等蚕糸学校に着く。校長から桑園整理、生糸についての話を聞く。

”家族制度”についての講演。

校長室で昼食。満洲の高粱が入った飯であった。

 

先生との会話が長く書かれている。

どうしても戦争の影が忍び寄る。

圓輔くんはあまり煙草を吸わないが先生はかなり吸っている様子だ。

 

神戸に着く。大阪商船では二階の貴賓室の隣に案内され丁重にもてなされる。

四時二〇分ごろにつき、別府行きのでるのは六時半である。

先生の勧めで神戸を歩く。