ガエル記

散策

『柳田國男先生随行記』今野圓輔 その3

ネタバレします。

 

瀬戸内海航路、別府まで(第四日目)-昭和16年11月16日ー

神戸から瀬戸内海を走る船の一等一四号室。7時に夕食。テーブルには同志社大学総長の牧野さんと大分県労務課長との四人で和食。「あまりおいしくない」と、先生。

この旅、外食がほとんど美味しくないみたいだ。

これもやはり戦争が近づいてきているせいなのか。

私はこれまで戦前は、もっと豊かなのだと思っていたがそもそも日本自体が貧しいのかもしれない。

 

瀬戸内海の船旅は今でもあるだろうがどんな感じなのだろうか。

イルカの群れがあらわれる。

一定方向に進んでいきその先にお宮があるので「イルカのお宮参りだ」なんて言っているという。かわいい。

 

二時半に別府につく。

朝日通信部員中村玉雄氏が迎えにきてくれる。

予定より二時間早い到着だったので貸し切り自動車をやとって別府を案内してもらう。

海地獄の鮮やかな色に驚きながら心中事件があったことを聞く。

すべて溶けてしまったという。

血の池地獄では真っ黄色のまんじゅうを買って食べるが蠅がたかっていたうえにちっともうまくないというwww

芋と卵が入っているらしいのだが。

なんだかもう何もかも美味しくないみたいだ。砂糖が足りないのかな。今ならきっとおいしくなっていると思う。

 

朝日新聞関係の寿楽園という広い庭のある宿に泊まる。

先生はすっかりお気に召した様子。楠の大木が特に良いらしい。

庭が広すぎて渡り廊下もなくせっかくの料理も離屋につくまでにすっかり冷めてしまっている。とにかく美味い食べ物にありつけない旅である。

名古屋では酒もビールもなく京都ホテルではカクテルかウイスキーしかなかったと書かれている。

つまり日本酒が飲みたいのだろう。

ここでも「焼酎が入っているし良い酒じゃないな、やはり」と言っているので日本酒にも事欠く時代、ということなのだろうか。

開戦していない時期でもこうなのか。

 

圓輔くんは柳田先生から若い役人時代の様子を語ってもらう。楽しい夜だったようだ。

 

別府から小倉へ(第五日目)ー昭和16年11月17日ー

 

九時二〇分、別府から小倉へ。

 

杵築駅日豊本線)を通り過ぎ「帆足万里なんていう学者が出たのもここだ。宇佐に近くなると山のアウトラインがじつに奇妙なんだ」と先生。「そのひとつに神様が降りられたと信じてその下にあるのが”宇佐の八幡様”なんだ」

 

圓輔くんは福島県の人なので畔も山も野も草の緑がはっきりと東北の今頃とは異なる、と感じている。

九州の緑は濃いだろう。

柳田先生が子供たちを愛し深い関心をもていなさるかがいたるところで見せられた、とある。

また柳田氏が「日本の昔話」というのをとてもきれいな本にして出版したことが書かれている。子どもたちが非常に喜んで読むのだという。

さらに柳田氏は女子が民俗学を勉強することに対し積極的だったことが書かれている。そのためか先生の治らない風邪を心配している圓輔をよそに女学校での講演を先生は引き受けてしまう。

 

「最近の文化運動と民俗学」(西部朝日新聞社講堂第一日目講演要旨)ー昭和16年11月17日ー

 

五時二〇分、徒歩で朝日講堂へ行く。かなり遠い。

北九州文化連盟・福岡郷土士かい共催の講座は二日間の会員制度。会員二七二名の由。六時一五分過ぎ火野葦平氏の開講の辞あり。

 

ここはタイトル通り講演の内容が書かれている。

非常に平易な文章でわかりやすい。

文化というのはいつの時代にもあった、という言葉が興味深い。

しかし良い文化、悪い文化というものはある。

ここで特に婚姻について語られる。

「女の子ばかりなので」というのは柳田氏に四人の娘さんがいるのでそのことなのだろう。

「他人の家で新しく生活が始まるので心配で夜も眠れない」というのだ。なんと優しいお父さんなのか。

現在結婚奨励の時代で集団結婚までやりだした、ことにも不安を感じている。(戦争直前の時代でとにかく人口を増やしたかったのだろう)

また葬式についても思案されている。

 

江戸幕府が倒され維新となり新しい時代が始まった日本。明治大正と過ぎこの時、昭和16年になりなんとあのアメリカと戦争しようとしている。

電灯もなく瓦葺の屋根もなかった場所が十五年経ってその地域は全部そろったものの「明るくなってはいない、幸福になってはいない」と柳田氏は語る。

 

そして講演をおこなった小倉の夜は寒く埃っぽく先生の咳は止まらないと書かれている。

これも近づく戦争のせいなのか。

文化を語り聞いているのにどうにもむなしい。