
ネタバレします。
古典の新しい意義(第一〇日目)-昭和16年11月22日ー
昼食は長崎ちゃんぽん。またも「ちっともうまくなかった」とある。やはり材料不足なのだろうか。現在は美味しいはず。
長崎医大の文化講演は一時二〇分から。
長崎医大での座談会ー昭和16年11月22日ー
天草・鹿児島を経て京町温泉へ(第11~13日目)ー昭和16年11月23~25日ー
途中、千々岩町というのは広瀬武夫中佐の生家のある所だという。
春陽館へ投宿。大きいだけでがさつな家である。料理もふんだんにあるだけで下等なもの、と手厳しい。
11月24日、きょうも晴天。先生と温泉にはいる。先生の御体はほっそりとして華奢に見える。
九時に宿を出て、十時、口ノ津行きのバスに乗る。今日は待望の天草行きの日である。
口ノ津より早崎海峡を越えて鬼池へ。それからバスで本渡(下島)へ着く。午後四時半なり。五時のバスでさらにそれから十三里の牛深へ行く。夜七時半ごろ牛深へ着く。かなりの強行軍だった。
ここの娘たちは結婚前はほとんど全部が各地で遊女になって銭を貯め結婚資金を稼いでから村に帰って結婚するという。稼ぎ方が多ければ多いほどいい結婚ができるなど天草一円がそうであるがこ都にこの辺は日本婚姻史上多くの資料を蔵しているところであるなど、この夜、先生から貞操観念の変還や婚姻関係の詳しい話を伺った。
25日は五時に起き船が出るか出ないかを聞いてからにしようと朝茶だけで宿を出る。
「梅干しの種をもっていっちゃいかんよ。海の神様はお嫌いだから」
長島という島に寄ってから本土の阿久根につく。
野生のツワブキの黄色い花が咲く。
ニッキというものを買う。ニッケともいい肉桂である。先生は子供の時しゃぶったもんだよ、というが圓輔くんは初めてだった。
鶴の渡来地を通る。
一時半鹿児島につく。
桜島がいっとき物凄く煙をあげる。
鹿児島の街は気に入った、と圓輔くん。
二時四六分、吉松行に乗る。
四時半、栗野へ着く。
戻りのバスに乗って京町温泉につき真砂旅館へ泊る。
露霜がいっぱい降りて深い霧が立ち込めている。
朝六時起床。七時一四分の汽車に乗る。
寒くて震え上がった。
霧島連山。もろもろの部落が雲海の中に島のように眺められそこへ朝陽が指してなんともいえない絶景である。
八時五〇分、人吉に着く。
ここで先生は初めて手袋をなさる。用意のよさに改めて感心した。
この辺の気候は相馬と同じくらいらしい。九州といえばみな暖かいと思っていたら大間違いだった。
口ノ津では女の子が浴衣一枚で遊んでいたし、天草では百姓の婆さんが裸で畠を耕していた。
先生は球磨川を見て「この川を下るのを真似して大井川や天龍くだりをやりだしたんだ」という。
小浜温泉で勘定を払う時に圓輔くんが帳簿へ電話で「勘定をお願いします」と言ったのを先生は聞きとがめ「きみ!敬語の乱用じゃないのか。なんで君はお願いしなければならないのだ。そう敬語を使っていては目上の人にいうときに、敬意を表したことにはならなくなってしまうじゃないか。わたしらは「勘定しておくれ」という。女子などは「くださいね」などという。ください、もていねいすぎるが、まあいい」と色をなしてお叱りだった。
(これは圓輔くん、かわいそうだな。日本人の敬語の乱用はますますひどくなっているように思える。
「させていただきます」なんていうのを柳田先生が聞いたら卒倒されるのではないか。
「お願いします」は現代人は普通に使っている気がする。私もたぶん使って怒られそうだ)
この後の記述で圓輔くんは大阿蘇の国立公園の雄大な眺めを見て自分の存在の小ささに生きていることが悲しくなってくる、とあるのだがこの時のお叱りが影響しているのではないかと同情してしまう。
その夜先生は同宿の誰彼と親し気に話などなさっている横顔を眺めていた、と書かれていてますます悲しさが感じられる。
こういう時に限ってその夜は先生と同室だったらしい。
帰りの瀬戸内・神戸へ(第15日目)-昭和16年11月27日ー
二七日、朝まだ暗く嵐の音が聞こえている。寝たまま今度の旅行のことなどを考えていた。
七時に起きたが楽しみにしていた雲海は見られず。
風呂に入って八時、食堂へ。この朝食は美味しかった。
八時五〇分のバスで大分行に乗る。
波野を過ぎる。
「伊良湖崎にはしばらく住んでいた。砂の上で目を閉じて日光浴をしていたら何かひょっと気がついてみるとウサギがすぐ近くにいるので知らぬ顔をして薄目を開けてみると一〇匹も私を中心にぐるっと集まっていてびっくりしたことがあった。あんな動物は非常に好奇心が強いものとみえて興味深げに私の挙動を観察していたらしい」
豊後竹田に着く。
「谷底みたいな町だけどなかなか良い所なんだよ。文学なんかも盛んなところでね」
「ぐるっと回ったわけだね」
別府に着いたのが一時六分。
新造船”こがね丸”は十二時について待っていた。
部屋も広く美しい。
三時、サロンに出る。日米会談のニュースに耳をそばだてている者が多かった。
四時近く、先生の姪の娘さんが新婚旅行で別府へ行っての帰り、偶然同船して挨拶に来られた。
上天気。九時四〇分過ぎ、神戸へ着く。
一〇時三四分、横浜行きの列車を待つ。
嵐になるらしい。
「僕が十三の時、はじめて播州を出て東京へ来たんだが家で雇った人力にのって十五里かそれ以上もかけてここまできた。」とあって驚く。ひとりの車夫さんなのか?昔の話がよくわからない。
汽車に乗るが急行ではないという。
大阪駅につき、堂々とした大都会の風貌に圓輔くんはまもなくここが自分の職場になると思うと親しい頼もしさを感じている。
しかし圓輔くんはここで少し熱を出し頭痛をこらえている。
四時十分名古屋に着く。
次第に日が沈み寒さ加わる。
圓輔くんによると「どうして後を描いてないのか、もう思い出せない。この夜、蒲郡で泊まり、翌日小田急で帰られる先生と小田原でお別れしたのだった。
柳翁随行後記
旅行から帰って九日後の12月8日、徹夜で卒業論文を清書していた払暁、真珠湾攻撃の臨時ニュースがあって日米開戦となった。
文字通り国家大変の年であった、とある。
ほんとうに「大変な時」の直前にこの旅行は終わったわけである。
この「後記」にはもしかしたらこの「随行記」の中で最も重要でかつ書きたくなかったであろうことが記されている。
それはこの旅行の最後、蒲郡から再び汽車に乗って熱海を過ぎ小田原近くまで来た時先生は突然バッグを持って立ち上がりながら「きみに旅行の仕方を教えようと連れて歩いたが失敗だった、落第だったな。僕は小田急で帰るが、君はこのまま乗っていきたまえ」と告げられたのだ。
正確な言葉はもう思い出せないが、そういう意味のことを言われた、と書かれている。
先生の御宅は成城学園だから小田原で乗り換えるのは当然なのだがこれでわたしもお出入り差し止めの破門なのかとそのショックは大きく悲しかったのではっきり覚えている、と書かれている。
随行記のメモのとおりに書かれたこの著書だがこの言葉は記憶だけに頼ったものなのだろうが、何十年の時を経ても今野氏の記憶からなくなることはなかったのだろう。
本編でお叱りを受けることはあったとしても穏やかな柳田先生と若い圓輔くんのやりとりをほのぼのと読んできたその後にこのような言葉が圓輔くんを奈落の底に突き落としていて読んでいるこちらも衝撃だった。
この悲しい記憶は本編で語ることができなかったのだ、と思う。
そしてそのまた後に圓輔くんにとってこの随行がとても辛いものだったことが書かれている。
柳田先生は汽車の車窓から農村の風景を眺めているのがいつまでたっても新鮮な喜びだったのが若くまだ知識も乏しい圓輔くんにとっては何の興味もない苦行だったらしい。
しかも写真撮影もメモを取るのも先生の怖い目でじろりと睨まれてしまう、と怯えていたのだった。
しかしそれもまた人生なのだろう、と思う。
ただ楽しい旅でなくこのような思いがあった、ということがますます本著の意味を深くしているのではないだろうか。
今野氏がこの記憶と思いを終生持ち続け人生の最期に書き残されたこともいじらしく感じてしまう。
ますます映画化してもらいたい気持ちが高まってしまうのだ。