ガエル記

散策

『ぼくとフリオと校庭で』諸星大二郎 その3

 

ネタばれします。

カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』についてもネタバレします。

 

 

 

「蒼い群れ」~漫画アクション増刊『スーパーフィクション8』(双葉社)1981年9月~

 

こういう形で見せられるとゾッとして「こんなことはさせないぞ」と意気込むかもしれないがさて世界がどうなっていくのかは誰にもわからない。

 

本作で描かれる「次々と人体を切り取っていく」という状況を見ていくとどうしてもカズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』と重ねてしまう。

が、同時にその差異もありそれは作品が生まれた年代に関係するのか、作家性なのか。

『わたしを離さないで』が2005年作、「蒼い群れ』は1981年作と発表は20年以上離れている。作者の所属する国がイギリスと日本と違うとはいえ創作年代の違いも関係しているだろう。

 

1981年「蒼い群れ」の主人公は国家によって支配される恐怖が強烈だ。

それは逆に個々人が自由な生き方を望んでいるからだろう。

国家による支配の仕組みはグロテスクにすぎる。

2005年『わたしを離さないで』は同じように臓器を含む身体の移植のために生きる人々が描かれるがその印象は整然としたものだ。

『青い群れ』に描かれるように逃げようと暴れまわったり絶望のため異質な物に変化し悪臭を放ったりはしない。

人はその仕組みを静かに受け入れ清潔にことは運ぶ。

後に残るのはすべてが無に帰した皮肉な笑いのみだ。

 

それだけに本作時代はまだ人間の野生が感じられる。

 

冒頭に書いたことだが、ではこれから人間がどう考えるようになるかはわからない。

人間は自由より安全安心な幸福を望んでいくようには思える。

本作には次々と人工器官をつけていくことへの恐怖と憎悪も描かれているがむしろその方向へいくような気もする。

違うだろうか。

 

 

「影の街」~『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)1985年

 

冒頭

「しらない路地をみつけたりすると 

その路地を抜けた向こうに全然しらない街があるような気がして

つい いってみたくなるんだ・・・」

から始まる。

この考えは「ぼくとフリオと校庭で」でもあったものだ。諸星氏は子供時代もしくは大人になってからもこの考えをされたのであろうか。

確かに子供の時はそんな空想にふけっていた。

 

が、違うのは諸星氏の空想はとんでもなく強烈に恐ろしいことである。

 

本作のタイトルは「影の街」

小学生の明夫は塾に行くのが嫌でサボっているのを同級生の寺田に見とがめられ金をせびられそうになるところを逃げ出す。

明夫が「影の街」に行くとそこには巨大な化け物がいて日に日に大きくなっていき通りがかる人を食うのだという。

その化け物は寺田を捕まえ食ってしまう。

翌日学校にいくと寺田は交通事故で亡くなったと知る。

 

つまり「影の街」の影=シャドーはユング心理学からきているのだろう。

影の街にいる化け物は明夫自身、もうひとりの明夫なのだ。

明夫は化け物が大嫌いな寺田を食うところを見た。

さらに今度は「家も学校も食っちまえ」と叫ぶ。

 

街中で気絶しているのを見つけられた明夫はしばらく塾に行かなくていい、と言われる。

そしてまた大嫌いな体育の授業が一時間目にあるという日、明夫は路地に入る。

 

さていったい明夫の世界はどうなるのだろう。

恐ろしい人物へと変貌していくのか。