ガエル記

散策

『アダムの肋骨』諸星大二郎  その1

「奇想天外コミックス」1978年

諸星大二郎著コミックスで最も愛着のある一冊だと思う。

「読者がこういう本を買っているのに新装版が出て」と諸星氏が心配してくれているのであろう。

紙の本であれば新装版もまた良きものではあるが。

 

 

ネタバレします。

 

 

貞操号の遭難」《別冊問題小説》1975年秋季号

マンガ作品の設定とはいえ宇宙船の乗組員が全員(といっても三人だが)女性というのは当時あまりなかったのではないか。

というのは無論男性作家の場合、男性主人公が未知の惑星で特殊な体験をする話を描きたいという欲求があるはずだからだが、本作ではその役割を女性たちが担う。

 

とはいえ本作のアイディアは少なくとも男性作家及び男性読者にとっては女性を主人公にせざるを得ないだろう。

 

というのはその惑星では男性(ものすごい美少年の造形をしている)が足に根の生えたいわば植物状態であり作品の女性たちふたりはその美しい少年と交わりその精液を別の場所にいる女性植物のもとへと運び受精させた胚子を再び体に受け取り適当な所に植え付けていく、という仕組みになっているのだ。

 

ふたりの女性乗組員は宇宙船に戻りその胚子は船のあちこちに植え付けられてしまい宇宙船は遭難したのであった。

 

淫靡で妖しい夢のようなSFである。サイケデリック調というべきなのだろうか。

 

この作品の主人公を男たちにしてしまったら・・・まず美少年から精液をもらわねばならない。うむ、諸星氏なら描いてくれそうではあるが当時の読者的には危ういかもしれない。

今なら・・・描けるかも。

 

 

「アダムの肋骨」《ビッグコミック増刊》1976年1月号

今度は逆に男性のみの宇宙船である。

 

以前の記事に書いた「諸星大二郎氏は鳥と女を重ねて描写する」の根源が本作にある。

地球人の男たちはキリスト教聖書の事柄をひとつひとつ重ねて考えていく手法は今ではすっかりお決まりになっているが、諸星氏自身は中期以降あまり聖書がらみの演出はしていないように思える。

 

地球人の勝手な思い込み、という傲慢さが際立つ、ように思えてしまう一作ではないか。

 

 

「男たちの風景」《月刊プレイコミック」1977年2月号

そして衝撃の第三話目である。

1・2話と同じようにある惑星を訪れた地球人男性はその星の女性に魅惑されその星から逃れられなくなる。

 

その星には三種類の人間がいるという。

美しく浮気好きの女性と醜くひからびたその夫たち、そして驚くほど美しい少年たち。

何故男がくっきりと二種類に分かれるのか、と主人公は訝しむがすぐにその答えは知ることとなる。

結婚後も女たちは美しい少年を誘惑したがるのだがその理由はその美しい少年たちは女性と性交した後妊娠するのである。

その後、美少年たちは急速に年老い醜くなっていくのだ。

そして地球人である主人公もまたその星の美女と交わり自分の腹に胎動を感じるのだ。

 

どんなふうにどの場所に妊娠するのかは謎だ。

「男性が妊娠する」という希少な話で様々な示唆を感じさせる一作なのだがSFというのは時代が移り変わるとそれが持つ意味合いが変化してしまう。

当時は結婚出産率が極めて高い時期だったからこそこの話が生きるのだが現在のように結婚出産率が絶望的に低下した世界ではあまり意味のない話になってしまうのだ。

当時感心したからこそ時代の移り変わりを感じてしまう。

 

 

「不安の立像」《漫画アクション増刊》1973年9月号

そしてこの作品である。

同じく1970年代の作品だが不思議なことに未来を描いたSFより日常の話の方が普遍性があるのだ。

本作なら現在でも普通に通じる話と思える。(ほぼ変わっていない?!)

そしてそのせいで1993年出版の新装版の表題作となっている。

 

私には無縁の世界で体験したこともないのだが平凡なサラリーマンが満員電車で見る謎の黒い影法師のエピソードである。

全身真っ黒のそれは誰もが見ているはずなのに誰もそれを気にしていない。第一彼のように窓の外を眺めたりしないのだ。

主人公男性はなぜか「それ」がとても気になり恋人そっちのけで周囲の人々に聞いてまわりついには直接その影法師に話しかけてみるのだ。

しかし「そいつ」はびくびくしたいじけた奴にすぎず主人公は呆れてしまう。

恋人は「いたっていいじゃない。いたけりゃいさせればいいのよ」という。

だがある日主人公は線路での飛び込み自殺の時にすばやくその肉片を食らう影法師を見てしまうのだ。

「餓鬼」

と主人公は名づける。

そしてそれ以降主人公は外を眺めたりせず他の乗客たちと同じように新聞を眺めて電車に乗るのである。

 

現在なら皆スマホを眺めているのにひとりだけ窓の外を見ている、というところだろうか。

この作品は1973年で50年以上経った今でも「平凡なサラリーマン」ほぼ同じような生活をしている(と思える)のは不気味でさえある。

恋愛事情も結婚生活もいろいろなものがすっかり変化してしまったのにサラリーマンと電車だけはそのまんまである(と思える)のは不気味でもある。

 

他のSFよりはるかに恐ろしい気がする。