
昨日、いつものようにここの記事リンクをXにポストしたらなんと本作の著者である島村一平氏に「いいね」&「引用」いただいてしまいました。
喜びと共に恥ずかしさでいっぱいです。
さらに引用にまでツェベクマさんの話を書いてくださり感謝するばかりです。
では続き参ります。
ネタバレします。
はじめに
ここで筆者・島村氏は謎解きに入る前に予備知識として舞台の背景や舞台装置、役者のプロフィールを紹介している。
これがちょっとおもしろくて、実は私はこれまでもそうだったのだがこの本を読み始めた時も説明を映画もしくはマンガあるいはアニメ作品のように頭の中で上映しながら読んでいっていた。
島村氏は舞台そして照明と書いているから演劇的手法なのだろうか。
自分はどうしても舞台演劇にはならなくてアニメ映画として考えてしまう。
そしてそのやり方をしていると入り込みやすい。
1 ポスト社会主義と宗教の「復興」
1/1 モンゴルにおけるポスト社会主義
◎ポスト社会主義とは
本書の舞台となるポスト社会主義時代、すなわち1990年の人民革命党の一党独裁放棄から調査終了時の2001年8月までの時期は「モンゴル人民共和国」と名乗った社会主義の崩壊からいわゆる現在の市場主義経済、普通選挙を導入した民主主義への政治経済上の過渡期であった、と記される。
ここではっとするのは書かれているように私たち資本主義経済の社会で生きている者は「抑圧的な社会主義から解放されてよかったね」というイメージだけが浮かぶことだ。
しかし2002年製作2003年公開のドイツ映画『グッバイ、レーニン!』を思い出せばそれは単純な万歳ではなかったと理解できる。
「社会主義は抑圧的な側面があったにせよ人々の心に安定をもたらす明るい未来を提供した未来志向性のある社会だった」
ところが
「ポスト社会主義時代とはそうした明るい未来の喪失の時代であった」
つまり
「社会主義の崩壊とは未来志向の社会が過去志向へと歴史的に大きく展開したことを意味していた」
これは私のような者でもイメージできる。私たちは未来がどうなるのかわからない社会に生きているからだ。
◎「明るい未来」を約束した社会主義
ボルジギン・ブレンサインによると、ある漢人ビジネスマンはモンゴル人とビジネスをした感想を「モンゴル人ほど社会主義を信じて、社会主義に希望を託した人々はいなかったろう」と語ったのだという。
「社会主義=発展する未来」という図式はモンゴル人民共和国の人々のアイデンティティの維持装置として機能した。
ところが社会主義は崩壊し「民主化市場経済」という標語の下にモンゴルでは社会主義時代に築き上げてきたものを極端に否定する方向へと走っていき跡形もなく消えていった。
「牧畜化」「農業化」「工業化」という三つの産業革命がふりだしに戻っていったのだ。
経済は困窮し生活は困難を極めていく。
それまで裕福だった者たちも生活苦を味わう。
さらに大寒害によって遊牧民は厳しい現実を突きつけられ社会不安がモンゴル国内全体を覆っていった。
1/2ポスト社会主義における宗教現象
◎社会主義時代の宗教
ここでも私はちょっとした驚きを知る。
ソ連型の社会主義では国家体制から宗教を排除することに熱心ではあっても建前上は憲法で「良心の自由」が保証されある特定の宗教を信仰することは自由だったということである。
が、1924年に成立したモンゴル人民共和国はソ連に続く第二の社会主義国家であるが宗教政策の厳しさは熾烈であったという。
しかしそれでも社会主義のモンゴルにおいて人々はまじないや占い、仏像や精霊への崇拝などを密かに続けていた。
宗教的職能者を欠いた《俗人によるささやきの宗教実践》が維持されてきたのである。
これを読むとどうしても日本における「潜伏キリシタン」を思い起こす。その中には独自の解釈をし、さらに禁教を解かれた後も教会とは合流しなかった「隠れキリシタン」という人々もいたという現象が興味深い。
これらは舞台全体を照らすボーダーライトである。
なのだが、この「エスニシティ」というのがなかなか難しい。
本書では「原初的な愛着」を持たざるを得ないエスニシティというものが、なぜ、いかにしてどのような位相をもって再構築されていくかを彼らの文化現象(シャーマニズム)の検討を通して吟味していく、とある。
シャーマニズムが社会秩序を再構築し伝統を確信する力を持っていることは知られてきた。シャーマンたちは精霊などと呼ばれる超自然的存在と直接交流を行う。
例えばシャーマンは「カミのお告げ」ということで新たに生み出された慣習を真性な伝統として人々に提供する。つまりシャーマンは本質的に「伝統」を創出する機能を持っているのである。
あらたに創出された伝統はエスニシティの位相を再構築することとなる。
この箇所を簡単に書き出すことは難しい。
物事は変化していく。
人々は様々な理由で移動し異種と混淆していく。
起源ではなく、その過程こそがルーツなのである。