
ネタバレします。
3章 シャーマン誕生とルーツ探求運動
2 モンゴル世界における父系系譜の意義とその忘却
ブリヤートの人々は系譜とクラン名をよく記憶していると言われている。
これに対しモンゴル国の多数派集団ハルハ人はこれが忘れ去られている、という。
このモンゴル国ハルハ人の説明で「社会主義となったモンゴルにおいて親族組織による生産様式の解体が完成するのは1950年代後半のことである。これ以降、牧畜民の集団化が行われた。
集団化の初期には親族による経済的な協力が妨げられることとなる。牧畜協同組合の利益が優先されたのである。
自分の土地という仕組みがなくなり遊牧民のアイデンティティの維持装置であった系譜を記憶するという慣習をなくしてしまったのである」ということに驚いたがさらに驚いたのは次に書かれた「モンゴル人には姓がない」ということだった。
現在の日本では「夫婦の別姓の賛否」で紛糾しているが姓がないモンゴル人にとっては滑稽な紛糾だろう。「存在しないもの」で紛糾してもしょうがない。
「註」によれば「姓というものは土地を中心とした財産の相続をするための標識のようなものである」とされている。土地所有観念をもたなかった遊牧民において「姓」はさほど必要なものではなかった、ことから遊牧民族であるモンゴル人にとってこの変化は受け入れやすいものだったのだろう。
とはいえ「姓がない」というのは正直考えたことがなかった。
モンゴルに興味あるつもりでいたがこんな基本的なことに気づいていなかったというのが衝撃だ。
そのモンゴルにおいての象徴的なルーツの「復興」が「チンギス・ハーン」なのだという。ある調査ではモンゴル国の人口の60%以上がチンギス・ハーンのクラン名である「ボルジギン」を登録し名乗っているという。
ハルハの場合、ルーツを探求するというより直接チンギス・ハーンを利用して集団としてのアイデンティティを再構築している。
これに対してモンゴルブリヤートは明らかにチンギスの「父系子孫」ではない以上、自らのアイデンティティ化の資源としてチンギス・ハーンを利用できない。
3 モンゴル・ブリヤートたちの系譜記憶の「維持」とルーツ探求運動
清朝に帰属を決めたモンゴル・ハルハ諸侯と違いブリヤート諸侯はロシアに帰属すると決めた。
ところが20世紀初頭アガ・ブリヤートの人々の系譜の記憶によって築かれてきた親族的な紐帯は引き裂かれることとなる。
シベリア内戦の混乱の中、モンゴルへの逃避行の道すがら家族と生き別れてしまう。
親戚、親兄弟がロシア・中国・モンゴルの三つの国境で分断されて居住することになったのだ。
こうして空間的断絶だけでなく時間軸上の断絶もある。
ロシアに続きモンゴルでも社会主義が成立しそのイデオロギーの下で系譜知識そのものが否定されたのだ。
モンゴルに移住したアガ・ブリヤートの人々にとってアイデンティティの基盤である「オグの書」が内部告発に利用される。自らの保身を図った裏切者の仕業である。
そのため内務省官吏に見つかる前に系譜を焼き捨てたのだ。
こうした状況下にありながらアガ・ブリヤートの人々が系譜記憶に価値を見出してきたのは近親交配による障害児誕生の危険性を回避するためだった。
しかしそれはクラン外婚ではあるもののブリヤート内婚であるといものだった。
ハルハ人、ロシア人、中国人という「異民族」との外婚は忌避された。
ここで幾つかのブリヤート人と異民族との結婚が忌み嫌われたエピソードが語られる。
正直に言えば近親婚を回避したいのなら異民族と結婚するのが一番なのにそれを嫌って苛め抜くという、いわば「よくある話」ではある。
90年代初頭、民族純血主義が渦巻く中、オグしなわちルーツは災因論を構成するのみならず、災難そのものでもあった。
その災難は人為的に構成された人災であった。
そもそも、系譜的な知識を消滅させた社会主義において「オグのない人」「混血」という境界線を生み出したのは、ポスト社会主義のモンゴル国家であった。
こう考えると「オグにねだられていた」のは「系譜的な瑕疵のある」存在としてのシャーマンたちであるというよりむしろそのようなカテゴリを生み出した純血主義を標榜する国家や地域社会であったといえよう。
現在シャーマンとなっているのはそのような「オグにねだられた」すなわちルーツに偏執する社会によって創られたエスニックな分類において境界線上の異物とされた人々であった。