
ネタバレします
終章 解き放たれる「想像の共同体」、紡ぎだされるネットワーク
ついに終章まで辿りついた。
本書におけるまとめがされている終章である。
「シャーマンの増殖」という現象の謎を解きながらシャーマニズムによるルーツ探求を通してモンゴル・ブリヤートの人々のエスニシティがいかに再構築されどのように想像されているかが明らかにされてきた。
本書を読んで思うのは人間というのはどんな困難に会ってもなにかしらの道を進み続けるのだということだ。
ここでは純血を尊ぶ民族が悲劇によって混血になった事実を「意味のすり替え」によって新しい伝統を生み出していく、ということが証明された。
そうであるべきだし、そうなっていくのである。
現在の日本社会も戦争や革命ではないが異国の人々が入ってきていて、純血であることにこだわりを持つ派の人々からは強い拒否感を持たれている。
今後、日本社会がどのようになるのかは私にはもう観ることのできない次世代以降が知るものだ。
モンゴル国民が父系系譜ーチンギス・ハーン的原理という男性性の結びつきによってモンゴルナショナリズムのイデオロギーを構築しているのに対しモンゴル・ブリヤートの人々が「ホイモルの女房」をルーツとして概念の解体を図っている、という説明は心惹かれるものがあった。
私には本書のような説明はできないが近年様々な物語作品においてかつての男性性を押し出した創作から非常に女性的な創作作品が多く読まれている、と感じられているからだ。
そのことを考えていくうえでも本書の内容は私に重要な鍵を与えてくれた。
さて読み終えて。
私にはとても難しく困難な読書ではありましたが読み続けられたのはただひとつの理由、序章で司馬遼太郎著『草原の記』に描かれたツェベクマさんの背景を知りたいということでした。
『草原の記』で知ったツェベクマさんの描写はあまりにも鮮烈で初めて読んで以後も彼女の話を読みたいがために幾度もあの薄い新潮社文庫の頁をめくったものでした。
とはいえその背景を特に調べもせず来てしまった私がこういう形で読むことになろうとは。巡りあわせの不思議を感じてしまいます。
『草原の記』は幻想的な描き出しで始まる。
そこは、空と草だけでできあがっている。人影はまばらで、そのくらしは天に棲んでいるとしかおもえない。
「匈奴」と題された一節の次の節でツェベクマさんが登場する。
おかしな響きの名前だと感じた司馬氏は彼女に出自を問うと「きっすいのモンゴル人です」と答える。
その時は何も思わなかったが今読むとその言葉に含まれた歴史を感じてしまう。
司馬氏は1973年に通訳としてのツェベクマさんと出会い、1990年に再会する。
この著書はそこで知った彼女の人生をわずかに写し取ったものだろうがその内容は重い。
司馬遼太郎の小説作品は多くのヒーローを描いてきたものだった。
「漢を描く」(この場合”男”という意味)作家であった司馬氏の作品群を私は好む者であるがもっとも心に残った人物はツェベクマさんであり、読み返したのもこの本である。
もしかしたら司馬氏自身もそうであったのではないかと勝手に思ったりもする。歴史上のどの英雄よりも目の前にいる通訳である彼女ほどの印象はなかったのではないか。
市井の人を描く作家ではなかった司馬氏が彼女の話だけは書かずにはおられなかったのではないかと思ったりする。
この本の最後もツェベクマさんの話で終わる。
「ツェベクマさんの人生は、大きいですね」
と私がいうと、彼女は切り返すように答えた。
「私のは、希望だけの人生です」
急にはげしい嗚咽がおこった。
その嗚咽は同席している教授のものだったが司馬氏は見ないようにした、と書かれている。
私も一緒に涙ぐんでしまう。
凄まじいものであったろう人生を「希望だけの人生」と答えることができたのは英雄たちにもいたのだろうか。
その歴史を別の角度から読ませてくれた島村一平氏に感謝、そして偶然めぐり逢った「ゆる民俗学ラジオ」の黒川氏に感謝、そして運命にも感謝したい。
追記:肝心の「ゆる民俗学ラジオ」『増殖するシャーマン』動画をリンクするのを忘れていました。
この動画を観なければ今回の出会いはありませんでした。
ほんとうに感謝するばかりです。