
本作単行本を持っているのですが表題作以外はすでに読んでいて本ブログでも紹介済み(「詔命」は「礎」というタイトルであった)&「マンハッタンの黒船」だけはまだ記事にしていない)なので今回は表題作『失楽園』のみを取り上げます。
ネタバレします。
「失楽園」 1978年「マンガ少年」7・8号
【地獄変】
地球上から大きな都市が次々と消え荒廃と絶望だけが地上に残された。スティージェの沼にへばりつくようにして生き残っている人類の末裔がいた。
人間たちは泥の中の水トカゲを獲ろうとするが二日もなにもないままだ。
さらに人間を食う大蜘蛛にいつも怯えていた。
「”幸福の沼”は美しくそこには楽しみだけがあった。永遠の楽しみと安息が」
おじいの繰り言に周囲はうんざりしたがダンは問うた。
「その”幸福の沼”はどこにある?」
それは世界の中心にあり神々と選ばれた者のみが住んでいるという。
わしらの先祖もそこに住んでいたが”その男(アダム)”が大きな罪をおかして楽園を追放されたのだというのである。
ある時、悪霊と幽霊以外いないはずの荒れ地の向こう”幸福の沼”から来たという男が現れた。その男は死んだと思われた赤子に薬を与えて生き返らせた。
「奇跡だ」
その男は「昔、幸福の沼は全地を覆っていたが今は失われてしまった。それは人々が快楽に溺れ愛しあわなかったからだ」と説いた。
「だが神は正しい者のために”幸福の沼”を一つだけ残しておいてくれた」
そこへ連れて行ってくれと騒ぐ人々にその男は「人はこの沼地で生きることを定められたのだからそうしなければなりません。愛しあいなさい。そうすれば”幸福の沼”への道はおのずと開かれるのです」
だが人々はその男を責め殺したのである。
そしてダンは愛するララを大蜘蛛に食われ絶望した。
ダンは誓った。
「おれは荒れ地へ行く。荒れ地を越えて”幸福の沼”を探す」
ダンは金属の荒野を彷徨い謎の老人に出会う。
老人はダンの望みを知って案内してくれたのである。
ふたりは”レーテの町”の門にたどり着いた。
【天堂篇】
「我を過ぐれば
安楽の都あり
我を過ぐれば
忘却の町あり
我を過ぐれば
喜びの民あり
我より外に正しき世界なく
しかして我
永遠に立つ
我を通る者は
一切の過去を捨てよ
ダンはその門を通ったが案内してくれた老人は再び荒れ地に戻っていった。
ダンは門を通ってすぐララにそっくりな少女に出会う。
が、その後を追うと少女は「リーチャ」と呼ばれていた。
彼女に声をかけた男グイドにダンは以前いた沼の話をしようとするが男はそれを遮り「外の世界のことは一切話したり聞いたりしてはいけない」と忠告し彼に衣服と住居を与えてくれた。そしてこの町に住むには秩序と調和が必要なのだと告げる。
グイドの忠告に従いダンは町に慣れようとするがどうしても「先祖が犯した罪とはなんだったのか」という疑問を解かずにはおれなくなりグイドに問いただす。
やむなくグイドは楽園都市が滅びていった歴史をダンに見せだからこそこの町の掟を守っていかねばならないと再び忠告する。
だがララにそっくりな少女リーチャから「ここは楽園のなれの果て、落ちぶれてしまった形だけの楽園」と聞き動揺する。
リーチャは「理由なんてない。それはただ失われてしまったのよ」と叫ぶ。
ダンは”幸福の沼”を欲しこの地に来たがどうしても考えることを止められなかった。
そしてリーチャは掟を破り死んだ。
ダンは”幸福の沼”の衣服を脱ぎ元のぼろ服をまとい町を出た。
考える者は楽園に居られないのだ。
諸星大二郎、といえば「ぱらいそさいくだ」を思い出す人も多いのではないか。『生命の木』は諸星作品の名作の一つである。
これは「日本におけるキリスト教徒」をモチーフにしている作品であり諸星作品の特に前半期に「キリスト教」にまつわる創作が幾つもされている。
とはいえ、諸星氏は「キリスト教作品」を次第に描かれなくなったようだ。
そもそも諸星氏の作品は「皮肉」が基盤となっているように思えるがたぶん諸星氏にとって異教であるキリスト教よりも日本土着信仰への皮肉の方が面白くなってしまったのではないだろうか。
(諸星氏の信仰が何かは知らないが)
『生命の木』が名作になったのはキリスト教モチーフでありながら作品内容は日本土着の信仰でもあったからなのだろう。
本作と比較すればその解像度が高いのは間違いない。