ガエル記

散策

『憑依と抵抗』現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム 島村一平 その6

ネタバレします。

 

 

第3部 連環する生と死

7 シャーマニズム、ヒップホップ、口承文芸

———韻の憑依性をめぐって

 

いきなりここでシャーマンは「精霊の声が聞こえていない」と告げられる。

シャーマンが話す精霊の声は聞き取りづらく通訳のような人がわかりやすく伝えてくれる。精霊が去るとシャーマンは帽子を取り外しながら「精霊はなんと語ったのだ?」と聞く。シャーマンは覚えていないのだ。

そしてとある女性シャーマンが語る。

「オンゴド(精霊)とは人間の姿をした先祖霊とかではなく、言葉そのものなんじゃないかしら」

頭韻を踏んだ召喚歌を唱えているうちに自分でわかっているようでいて知らないうちに言葉が出てくるのだという。

「だから自分で何を言ったかわからない。自分でわかっているようで自分でわからない言葉を話している感じ」なのだ。

当然にして「精霊に姿形などない」という。

 

新米シャーマンは祈祷歌を唱える修行を積んで精霊の声を発するようになることを「口が割れる」と表現するのだという。

これは「新人シャーマンに憑霊の技術を学ばせるうえで重要なのは通常とが異なる言語を放つ技術の習得である」という意味であった。

ここに頭韻を踏む祈祷歌から精霊の声が発せられるようになるのだろう。

 

モンゴルのシャーマンたちにとっての「憑霊」は韻を踏み続けることによって意識外の言語≒精霊の言葉を新たに生み出す営為を指す、のではないか。

これを「韻の憑依性」と呼んでおこう。

 

「韻を踏み続けることの延長線上に無意識的な歌詞の創造がある」

シャーマンの地方には英雄叙事詩の語り手はおらず、英雄叙事詩の語り手がいるところにはシャーマンがいない。

 

シャーマンの中にはあえて精霊を憑依させないという人々もいる。モンゴルの民族音楽オルティンドー(長い歌)やホーミー(喉歌)といった歌詞のほとんどないメロディだけの歌を歌う「韻を踏まないシャーマン」である。

彼らは帽子を脱ぐと「精霊たちはこう言っていた」と通訳を介さず直接クライアントに答えていた。

彼らは憑依言語を持たないのだ。

 

こうしたことから島村氏は現在のヒップホップミュージシャンが韻を踏みながら歌詞を生み出していくスタイルにシャーマニズムを重ねる。

雑多な現実がブリコラージュされることでもうひとつのリアリティが生まれるのだ。

 

 

8 生まれ変わりの人類学 ——化身ラマたちの世界

 

 

第4部 民族文化のゆくえ

9 コスプレ化する民族衣装

 

 

 

と、最後の記事は省略したが読み終えました。

衣装についてはどうなのだろう。

例えば自分を見てみれば民族衣装といったもの、つまり和服と称されるものを着用したのは成人式で最後だったし浴衣ですら着ていない。

観るのはいいが自分が着るのは無理である。毎日自転車に乗るので和服ではできない。袴であっても汚れそうだ。

結局は服装は利便性と経済的理由で選別される。

 

と、それはさておき、本作も『増殖するシャーマン』に引き続き興味深い一冊だった。

生まれた場所や年代で人間は様々な苦難を受けることになるがその中でなんとかして生きぬいていこうとする。

言葉が韻を踏めばそれさえも利用する。

思想や圧政が襲ってきてもどうにかその状況に対応していく。

そして過ぎ去ればまた自分を取り戻す。

私にとって本作はアーレントさん=ツェレン・ドンドブを知ったことが一番の糧であった。