
2020年「録画した映画を鑑賞」して本ブログにて記事にしました。
前編は傑作と思ったものの後編に落胆し宮部みゆき原作小説を読んでその素晴らしさと映画との比較をしながら映画の批判をした、もっというと「扱き下ろした」のですが先日wowowで何気なく観ていたらとても面白く感じてかつての自記事を思い起こし慌ててもう一度鑑賞しなおして感想をし直そうと思っているところです。
ということでまず先に過去記事への反省と謝罪と再評価を記しておきます。
私が初鑑賞して低評価したのは2020年ですが製作されたのは2015年でした。そして2025年の今再鑑賞してやっとこの映画の面白さ有意義さに気づいた気がします。
ネタバレします。
とはいえ長い長い映画なのでまずは前編、前回高評価しながらも不満があると感じたのを覚えている。
例えば校長の演出描写である。原作の校長描写に比べ「現実によくいる、事件を隠蔽するタイプ」として登場させたのが自分は気に入らなかったのだ。
しかし現在見てみるとこの改変で良かったのではないかと思う。校長のこの気の弱さが事件を悪化させていくのだ。
改変によってわかりやすくなっている。
かつての鑑賞で最初のひっかかりだっただけに悔いも感じる。
ここでつまずいて本作を観る目が決まった感じがあった。
逆に言えば私がここで納得していれば、という気もする。
という前回鑑賞の反省点を踏まえて今回なぜこの映画にここまで感想を変えられたのか、という点を書いていきたい。
本作を観てからの五年間も多くの社会問題が投げかけられてきたように思う。
その多くが「なぜ社会はここまで理不尽なのか」というものである。
そして製作される様々な作品(映画、マンガ、ドラマ、小説などなど)にも反映されてきたが自分の思い込み的な感想としてなにか歯がゆい問題提議のみ、もしくは暴力的な解決、あるいは背景を現在日本ではなく別の世界に置き換えたもの、であり現実に近いものほど「どうしようもないよね」「結局世界は、社会は変わらないよね」というものだった、と感じている。
五年ぶりに本作を観てしまい逆に衝撃を受けてしまった。
この中で主人公たちは「どうしようもできない世界をどうにかしようと足掻いていた」からだ。
現実、「中学校内で起きた”中学生徒の死”を自分たちで裁判する」ということはできないだろう。
だがだからこそ映画という虚構の中でせめて現実化していったのだということをもっとしっかり見なければならなかった。
それは魔法でもなく超能力戦でもなく神の力でもなく自分たちの能力内で行うことだった。
その中心部分をきちんと観ていなかったことを後悔している。
主人公の涼子は正義感の強い少女で自認してもいる。その彼女が同級生の女子らがいじめられているのを目撃しながら謗らぬふりをしようとしたのを柏木に見とがめられ鋭く指摘されたことは彼女の自尊心を深く傷つけ自殺しようとまで追い詰められる。
だがそこで涼子が取った選択は「死ぬ気ならとことんまで戦おう」ということだった。
このあまりにも思春期らしい激しい思考に打ちのめされる。
一方、三宅樹里の少女らしい危うい精神性が強烈に描かれていく。
自分を崇拝するかのように慕ってくれる友人を罵倒し彼女を傷つけることで自分自身も傷ついていく。
あえて危険な道を歩んでいく彼女はその友人の死で声を失ってしまう。
優等な主人公涼子の影の存在として樹里は存在している。
ふと思ったが自分のような昔人間は本作配役の性別が逆の方がわかりやすかったのかもしれない。
涼子が男子で柏木の方が女子である、という方が。
であればあまり疑問を抱かなかったのかもしれない。
柏木のエキセントリックさはかつては殆ど女性の描写ではなかったのか。
涼子の勇気も男性の描写であったのだ。
しかしそうはされなかったことにも本作映画の価値がある。
むろん後編に続く。