
『ソロモンの偽証』—後篇・裁判—
ネタバレします。
言いたいことはほぼ昨日の記事で書いてしまった。
以前は「前篇は良かったが後篇は・・・」という批判を持っていたけどこの作品が抱いてしまった疑問をほったらかしにせず解こうとした、という核心こそが肝であると気づいたのでその核心がずれていない限り、そしてずれていなかったので後篇がつまらない、ということはまったくないのだ。
今になって思うと以前の鑑賞と感想はいったいどこを観ていたのかと逆に問いただしてみたい。
映画の中で登場人物たち、特に主人公の涼子そして神原が自分の罪を問いただしたように私自身も私自身を問いたださなければならない。
個々人が対面した困難に対しどう向き合うかを描いた作品は特に日本作品においては少ないと思える。
(日本)人は出くわした苦難に追い詰められ悩んでも「この世界はこのようなものだ」と嘆くばかりで戦おうとはしない。
数少ない「戦う」場合でも権力を含む暴力である場合が多く思考してコミュニケーションするという方法ではない。
マンガ的エンタメ的なメディアでならほぼあり得ない暴力行為で解決する。
それでは解決ではないのだ。
むろん本当に解決することなどできないかもしれない。
だけど解決しようとする行為そのものがこの日本社会では表現されないことが悲しい。
愚痴を言い続けるだけの人々を見ているのは辛いのだ。
本作映画の最後で「14歳という時期だったからこそできたようにも思えます」と主人公は言う。
しかし学校内の問題だけでも「いじめ」や「自殺」などはいつまでも続いている。
「どうせ何も変わらないんだよ」という社会とそのような怨念だけが生まれ続けている中でこの映画を観なおしてしまった。
現在、少しだけ社会は変わろうとしているようにも思えるのだが。