
というタイトルからして察せられると思うがこの記事は2025年10月にセレクション新刊として出版された本そのものの批評感想ではなく私自身の森脇真末味という作家へのそして私自身が読んできた少女マンガについての思いを記す。
無名の一般人が書く文章なのであえて前置きする必要はないだろうが私個人が感じてきたことを書くだけの記事になる。
私の少女マンガ歴史の戦国時代「萩尾望都・竹宮惠子・吉田秋生・森脇真末味」の四天王の話になる。
ネタバレもあります。
そんな前置きをしてこのセレクション新刊のタイトルを書いたのは仕方ないが自分としては本作に良さを感じられなかったからではある。
というのは別に読む前から判ってはいた。
というのは私はかつて森脇真末味にはまり込んでいる時期があったからだ。
『緑茶夢』シリーズ、英一・英二シリーズ、バーテンダーシリーズ、そして初期の作品群も何度も読み返してきた。
ただその後それら以外の短編作品にはあまり「良さ」を感じられないと気づきはじめ次第にそれが多くなっていき、そして森脇真末味氏自身が作品を描かなくなっていきフェードアウトしていった、というイメージがある。
同時に私自身は他のマンガ作家に移るというよりマンガ読みそのものを辞めていった時期と重なってもいる。
時が過ぎて現在は再びマンガ作品を読んでいるのだが、さすがに若い時期のように多種に渡って読むことはなくかつての作品を読み返したり取りこぼしを探したりする方が多い。
そんな現在、目の前に現れた森脇真末味のセレクション新刊を見て心は動いた。
「たぶん、読んでも心が痛むだけに違いない」
昔、ひとり勝手に入れ込んでひとり勝手に「もう、ちがうかな・・・」と追うのをやめた、そんな関係なのだ。
そして買って読んでみて(本作はセレクションなのでかつての作品集だ)やはりそうだよな、と閉じたのっであった。
しかしそれはとても苦しい再会だった。
さて私の少女マンガ遍歴を簡単に書いてみよう。
小学生時代、私の家は「マンガは買わない」家だったのだが私自身はそれほどそのことに不平を感じておらず「外」で読むだけでかなり満足していた。小学生時代の読書はほぼ小説だったのだ。その時読んでいたのは少年マンガも少女マンガも同程度の読み方だった。
それが中学生時代、萩尾望都『ポーの一族』に出会って世界が変わってしまった。突然私はマンガを積極的に読みだしたのだ。
自然、竹宮惠子作品も知り他の様々なマンガ作家も知っていくが自分にとっての二代巨頭はやはり萩尾望都と竹宮惠子だった。
(その後、水島新司『ドカベン』を知ってまた違う世界に入っていくが今回は少女マンガにとどめる)
数年間私は萩尾望都と竹宮惠子を筆頭とする少女マンガ世界に没頭するがその後私の目前に現れたのが吉田秋生、そして森脇真末味だった。
このふたりの登場はまさに「新しい世界」だった。
夢みるような古いヨーロッパ世界を舞台にしていた萩尾&竹宮とは違い新しい女性マンガ家たちの舞台は泥臭いアメリカ・ニューヨークと泥臭い日本・大阪であった。
繊細で美しい少年たちの世界に耽溺したのが自分の十代前半で、肉体とセックスを感じさせる男たちを描くふたりの作家に入り込んでいくのは私がちょうど十代後半から20代にかけてでありそれは私自身の成長ともぴったり合っていたのだろうと今更思う。
様々な経緯はあるが私は自然と萩尾&竹宮から吉田&森脇作品へと移り進んでいったのだった。
吉田&森脇において私がより夢中になっていたのは吉田秋生氏のほうだったがその時期は短かった。
私が好きだったのは彼女の『カリフォルニア物語』だけだったともいえる。日本舞台の『河よりも長くゆるやかに』を過ぎ再びアメリカ舞台の『BANANA FISH』になった頃に私は読むのをやめた。
一方の、というか本筋である森脇真末味作品のほうが好きな作品は多い。冒頭にあげたシリーズものは今でも素晴らしい作品だと思っている。
私的に勝手に並べた吉田秋生・森脇真末味だが一時的熱情は別として森脇作品の方が良作が多いと思えるのに一般的な評価があまりにも別格に違うことに憤懣というより首をかしげている。
やはり作品評価、というのはそういうものなのかもしれない。
むろん私個人の勝手な評価基準なのだから仕方ないと言えば仕方ない。
森脇作品がどうしてメディア展開されなかったのか、吉田作品の方はあれだけされたのに、という不満はおおいにあるがそれはもうやむないことなんだろう。
その思いは萩尾・竹宮両氏へにもあった。
こちらについて、私は竹宮惠子『風と木の詩』途中で離れてしまった。
なので今でも最後をあまりよく知らない。
萩尾望都については先に書いたように吉田秋生・森脇真末味登場で少しずつ離れ『残酷な神が支配する』あたりですっかり抜けてしまう。
それが今ではご存じのように完全復活して読んでいる。
つまりまとめると自分にとって「萩尾望都&竹宮惠子」は「吉田秋生&森脇真末味」登場で離れていった。
竹宮惠子作品はその後もう読まなくなったが萩尾望都作品は今もなお読み続けている。
私にとって輝かしい新星となった吉田秋生作品は『カリフォルニア物語』のみで脱落。今はもう読み返すことはない。
森脇真末味作品は大好きだったシリーズ物は今もなお素晴らしいと思えるがその後の作品は「良いと思えない」
ではなぜ「良いと思えない」のか。
森脇真末味作品は必ず男性同性愛味が効かされるのだがその手法が辛辣なわりにはしつこい。
そしてなぜか女性描写にあからさまな「女性嫌悪」が感じられるのだ。
これらのエグ味に耐えられない。
初期作品やシリーズもの作品にもこのような傾向はあったがそれ以外の作品ではきつすぎる描写がされる。
実は吉田秋生から離れていったのもほぼ同じ感想なのではある。
少女マンガに革命を起こしていった女性作家たちには「男性同性愛志向」と「女性嫌悪」が常にあるのだがそれが度を過ぎてくると自分は辟易してしまう、というループに陥ってしまうのだ。
もっともそれらが強い四人の女性作家に私は夢中になってしまうのだがそれが強くなりすぎると離れてしまう。
結局私自身がいけないのだろうとも思う。
そして四人の中ではその傾向をバランスよく保ちながら作品を描き続け得たと思う萩尾望都に私自身は戻ってしまった。
それは萩尾望都にとっての最大の課題が「男性同性愛と女性嫌悪」ではなく「肉親憎悪」にあったからなんだろう。
そして類まれなSF作家であったことが萩尾作品を支えてきた。
と森脇真末味から離れてしまってはいけないので戻るとそれを考えれば森脇真末味の弱点は「男性同性愛と女性嫌悪」から離れられないことにあったのではないか。
『緑茶夢』が素晴らしいのはやはり「ロックバンド」を主題にしたことだった。
「ロックバンド」に代わる何かを見つけてほしかった、と今更に思う。
さて余談ながら現在の私の少女マンガ家は「萩尾望都&山岸凉子」である。突然の山岸凉子だけどそうなのだ。
というか「少女マンガ家」というカテゴリがなくなってしまったのではないか、ともいえる。
現在進行形でよく読む女性マンガ家は(ちいかわの)ナガノ氏とまめきちまめこ氏かな。
特にまめきちまめこ作品に心癒されている。