

昨日 Xで丸腰氏のポストを見かけて飛びついて読んだ。
ホモソーシャルにおける優秀な男同士の隠微な愛憎交わし物語大得意作家のかiわぐちiかいiじ先生が講演会で「こんな漫画が描きたくて漫画家になった」と言い放ちオタクたちが静まり返ったのがこちらの作品 無料だから丸腰と気が合いそうな人はみんな読んで‼️‼️‼️https://t.co/eOSrRE16Pa
— 丸腰 (@mrgsssss) 2025年11月21日
上村一夫の凄さは知っていたものの衝撃を受けた。
しばらく上村一夫を追ってみたい。
ネタバレします。
まったくの初読み。
『完全なる答案用紙』1970(昭和45)年 「少年マガジン」
現在の感覚ならばどうしても一種の「BLもの」と読めてしまう。
事実、丸腰氏もその視線で読まれたのだろう。
とはいえそうではない、そうではないがそもそもホモ・ソーシャル構造がどうしてもホモセクシュアルなものになってしまうのだという見本なのだ。
物語はふたりの男子高校生の競争心を描いている。
ふたりは中学時代からのつきあいで名門校へと進学しそこでも切磋琢磨しあう。
学業だけでなくそれぞれラグビー・サッカー部に入部する。
容姿も互いに優れている。
語り手は短髪でより男らしい風貌の「おれ」である。
「おれ」は無二の親友であると信じていた松村の表情に「裏切り」を感じ始める。
貼りだされる試験の成績を見て松村の方が悪い時は憎悪を良い時は優越感を見せる。
松村はガールフレンドと部屋にいる場面を見せつけて「おれ」よりも勝っていると証明したのだ。
しかし松村が本当に憧れていたのは学年一の美女と評判の山根順子だと「おれ」は見抜いていた。
そして「おれ」は勝った。
なぜなら山根順子の白い腹には「おれ」の生命が宿っているからだ。
これが満点の答案用紙だ。
という現在では少なくとも「少年マガジン」で掲載できる内容ではない。
画としてはなにも描いていないし文字としても直接書いていない。
いわば「読み取らなければわからない」マンガ作品なのだがその意味でもよくぞ「少年マガジン」で発表できたものだと思う。
事実「電脳MAVO」の責任編集者である竹熊健太郎氏(1960年生まれとあるのでたぶんその時10歳)はよくわからずトラウマになったらしい。
平たく言えばふたりの男子が自分らの競争心を満足するために女性を犠牲にしているだけのマンガなのだ。
今掲載されたらその一点で葬られてしまう作品だ。
その当時であっても反感を持った者はいただろうが絵の上手さもあって芸術であり文学でもあると評価されたのではないだろうか。
私とておぞましさを感じないわけではないがそれを上回るマンガ作品としての強烈な力に目も心も奪われてしまった。
確かに現在は「気持ち悪さ」は最大の憎悪とされてしまう。
特に「若い女性を犠牲にする」ことへの憎悪は凄まじいし私自身もそう思ってはいる。
だがそれをねじ伏せる作品力を見せられてしまったのだ。
この作品は様々に読み取ることができる。
「おれ」がほんとうに恋しているのは松村で無二の親友である「おれ」をさしおいて女性に興味を持った彼への復讐劇だ。
「おれ」は松村と無二の親友を気取っているが実は「常に少し自分が上である」ことが重要だと思っている。
頭の良い松村が実は「女性器」をまだ実際に見たことないと知って嘲笑する。
松村にガールフレンドができる、が「おれ」は学年一の美女であり松村の本命である山根順子を孕ませた。「おれ」の勝ちだ。
その「おれ」のなんとみっともなく男らしくないことか。
一見軟弱な二枚目に見える松村と対称的に男らしい清廉な容貌の「おれ」だが実際は「おれ」の方が軟弱なことに「おれ」が気づいていないということが描かれている。
上村氏はそれを意識して描いているのは「おれ」が教師の見えないところで「チッ」とする醜い表情で読み取れる。
まあここで「男らしい」の定義はといわれてしまいそうだが、そこまで含めて「男らしい彼への皮肉が込められている気もする。
しかしその皮肉を当時の少年マガジン読者たる少年たちは読み取っただろうか。
表面だけを読めば「これでおれの勝ちだぜ」とも受け取れる。
いやいや、まさかそこまで馬鹿ではないだろう、と思うけれども。
実際、これが現実だったらこの後、どういうことになるうと思う?
「おれ」くんが何事もなく無事なわけないよね。
という意味でもある。
そこまで描いてくれないとわかりにくいかも、なのだ。
いやいいんだよ、ここまでで。
まったく素晴らしいマンガ作品を読めてしまった。
このままではすまない。