1977(昭和52年)年7/23号~78年1/23号「Apache」
今回の「上村一夫読書」を始める前に読んでいた三作品のうちでもっとも感動した作品でありすべてのマンガ歴史に残すべき作品だと思っています。
ネタバレします。
ここまで上村作品を読んでくると本作が原作ものでありながら上村作品そのものだということが判る。
それは原作者の梶原氏との話し合いだったのか、それとも梶原氏が上村氏の作画ならこういう話が良いだろうと思ったのか。
それというのも私が知っている梶原作品は男性優位のものだからだがそれとしても梶原作品の女性もまた強い存在である。
上村氏との共作では女性主人公鷹野祥子は他の梶原男性主人公以上にスーパーパワーの持ち主である。登場する男たちは駅員の英雄くん以外は皆情けない者として描かれている。
その原因はすべて先の戦争によるもので敗戦によってすべての日本男児は男性としての強さを失った、と上村氏は思い知らされたのだと読書によってわかった。
本作で幼い翔子は父の裏切りに絶望する。
それは男らしいと評価され尊敬していた父親が特高警察による母の拷問を判っていながら逃亡していたという絶望だった。
「大人には様々な事情がある」という逃げ口上を翔子は蔑む。
一方女たちは戦争によって破壊された社会の中で虐げながらも図太く生き抜いていく、と描かれていく。
翔子もまた出会った売春婦たちと助け合うことで生きぬいていく。
父との再会にも翔子は安住せず再び飛び出し救護院へ行く羽目になる。
救護院で翔子はナメクジ先生とあだ名される矢崎と出会う。本ばかり読んでいる存在感の薄い小説家志望の男である。
彼はまさに戦後の弱い男の象徴として描かれるようだ。
他作品ならここで翔子はナメクジ先生と純愛で結ばれてハッピーエンドとなって然るべきなのだが矢崎は翔子に恋をし翔子の存在によって小説を書くことができたにもかかわらず最も大切な場面、翔子を自分のものにできるという場面でやっとつかんだ小説家という地位を選択してしまうのだ。
この「ナメクジ先生の選択」を日本男性はむしろ「男として取るべき行動」と思っているのではないか。
「愛する女性」より「男性行動」を選択する男こそ男だと思っているのではないか。
梶原&上村氏はむろんナメクジ先生の選択を嘲笑しているのだがさてどうだろう。
ここで「いや翔子ほどの美女じゃないから」という言い訳で自分を納得させているのではないか。
しかしナメクジは選択を間違え自ら死を選ぶ。
本作はナメクジが死に翔子が芸者となるところで終わり「未完」と記されているが私はここで「完」となったと思っていたしこれ以上描く必要はないと思う。
梶原一騎と上村一夫という癖のあるアクの強い作家双方によって作り出された本作は戦争直後日本社会のおぞましさを抉り出してあまりある。
過度な美しさ、過度な暴力描写、エグささえある台詞回し、強烈な構図に目がまわり酔ってしまうのだ。
以前の記事を張っておく。