
読了しました。
SF風味の不思議なお話でした。
相変わらず女性キャラの魅力は凄まじいです。
ネタバレします。
かなりおもしろかったのだが何が面白いのかそして何かが足りない気もするのは何故なのか、まだよくわかっていない。
この作品は自分が絶賛する『昭和一代女』と同じ年たぶん二か月遅れほどの違いというにもかかわらずまったくイメージが違っていて驚く。
凄惨な描写に圧倒された『昭和一代女』のあの絵を描くためにこの気の抜けた作品が必要だったのか。それともこの軽い作品を描くためにあの重い話が支えたのか。
と言っても本作はさすがに上村劇画、そんなに軽くはない。
そして内容もそうそう簡単にはつかみきれない。
はじまり、目が出ない劇画家の健二が宇宙人ムー(60というところから途中からムーという名前が付けられている)という謎の超能力女性に出会う。彼女が引っ越してきたのは健二の住む部屋から60センチしか離れていない向かいのアパートの部屋だった。
劇画を描こうとしてもなかなか集中できずムーを好きになっても浮気心が多くなんとも情けなく頼りないという「普通の地球人男性」健二と「地球に移民したい」と思って地球人を理解しようとするムーのすれ違い続ける物語は今となってみるとただ単に「女が男を理解しようとしてできなかった」という物語に思える。
というか上村氏はそもそもそう考えて描いたのかもしれない。
特に男性向け劇画誌マンガ誌では「男には女が理解できない」という話が描き続けられてきたが女性を描く上村氏は「女は男が理解できない」という物語を描いたのかもしれない。
ムーは結局「平凡な地球人男性」である健二を理解できずに地球を去る。
その健二はムーをすっかり忘れ故郷に戻って農業を始めようと明るく歩き出すのだ。(何なんだこの男)
一方幸薄い女の子のトモコはムーを「おねえちゃん」と慕い、宇宙へと去っていくムーを追い求めて激しく泣くところで本作は幕を閉じる。
結局・・・男はのほほんと母のもとへ帰りムーを思うのは女のほうだった、ということなのか。
ムーは何もできない健二を助けようと思いいろいろなことを許しキャベットという事業を起こすが結局健二が彼女に求めたのはセックスばかりで事業さえも盗みだす始末だった。
健二が本気でムーを思うのは彼女がいなくなってからなのだ。
男とはそういうものだということか。
しかもすぐ忘れてしまう。
なんとも奇妙なSFだ。
さて本作が他の上村作品と違うのはヒロインのムーが裸にはなり男性に奉仕はするがついにセックスはしなかった、というところだ。
そしていつもとめどなく流れる涙は一個の個体としての涙として零れ落ちる。
いつもの長い黒髪は短い巻き毛として描かれるが健二も同じ髪型なのが不思議でもある。どういうことなのか。
まあ思うにこのふたりは上村一夫が男と女に分かれた分身としての描写なのではないか。
情けない男としての上村一夫と宇宙から地球人を見ている女としての上村一夫なのではないか。
そう思うと最期の場面は娘と別れる若くして亡くなった上村氏を思わせるようで切ない。
この当時の上村氏はまさかそんなに早く自分が死んでしまうとは思ってもいなかったかもしれないがまるで暗示するようでもある。
それにしても上村氏が描く小さな子供はとてもかわいい。本作のトモコは『関東平野』の銀子を思わせる。生きて行く意志が強い生命力のある女子である。
1977年『60センチの女』の翔んでいる女性ムーの二年後1979年『やっちゃれトマト』は地球人女性だったがこちらは娼婦であるトマトになんだか心が痛んだのだ。
キャベツは良かったがトマトは無理だった。
南の島よりも宇宙へ行くほうが理解しやすいのであった。