1977年「ビッグコミック」
ネタバレします。
これをいったいどのように解釈したらいいのか、私にはよくわからない。
最後のコマの言葉を読めば「すがの幸福」は「息子とふたりきりで暮らすことだった」のだ、と受け取られるけどほんとうにそれが彼女の幸福なのか。
実を言うと最後の言葉が書かれているコマが黒地だったのでぱっと文字が読めず私は自分の幸福(すがの幸福)の邪魔をした息子に報復をしたのだと思い込んでしまった。
拡大して言葉を確かめ「?」となってしまったのだった。
息子と自分の幸福な生活に割り込んできた嫁を追い出すための策略を実行したすが。
とはいえこの暗い背景の中をあるく彼女には明るい未来が待っているとは思えないではないか。
女の若い時期を病気の夫の世話と稼業に忙殺されてしまったすが。
「二番目の母ちゃんだものな」という台詞があるので息子の要太郎との間に血のつながりはないのだ。
要太郎は母に女性を見ていたと描かれている。
それを打ち消すように結婚したのだが若い女の出現で”すが”の女性が露出したのか。
それにしても若いお嫁さんも同じ罠にはめられているようではある。
すがに幸福なんてあるのだろうか。
「ドライフラワー」
1976年「ビッグコミック」
いったい作者何歳の時これ描いたんだよ。
大学生の時?
中年以降だとしか思えないんだけど。
ずっと逃げ続けている男、の視点で描くミステリー仕立ての愛憎劇である。
妻に浮気の疑いを持ちながらその謎が解けた時、その犯人は自分だったと気づく。
が、時はすでに遅すぎたのだった。
この夫クンの造形に見惚れてしまう。
いや美形なのではなくよくもここまでリアルに描けるものだなあと。まさにいそうな感じなのだ。
というとすぐにブサイクを想像されるかもだ。マンガでは美形か、ブサイクかの極端になるものだがそうではない形でリアルなのだ。
もしかしたらこの男、自分をけっこうかっこいいと思い込んでいる類なのかもしれない。
だからこそ友人を馬鹿にしているのだろう。
そうした人間の外見と内面の両方の機微をおそろしいほど描いてしまっている。
「裸のお百」
1978年「ビッグコミック」
明治維新によって開国した日本は様々な面で西洋に追いつき追い越せと突き進んでいくのだが絵画美術もその一つだった。
近代絵画の基礎である人体研究には欠かせないのは裸体モデルである。
明治時代、着衣のモデルですらなかなか得難い時代であったという中で裸体モデルを探すのは無理というものだったのだろう。
欧州では存分に裸体モデルを使ってきた日本人の先駆者たちも日本に戻ってからはあきらめるしかなく風景や歴史画でお茶を濁すしかなかったのだという。
そうした背景を持って描かれるのが本作「裸のお百」である。
明治二十七年、メートル(師匠)と呼ばれる黒田清輝と久米桂一郎は洋画塾天真道場の塾頭であった。
道場では目を付けた女を騙して連れ込み服を脱がせようとする、というとんでもない事態を繰り返しては失敗していたが、そこへ現れたのが義理の叔父に引き立てられてきた
”お百”だったのだ。
日本人にしては手足が長く若いお百は黒田たちの気に入る。
連れ込まれた道場の男たちの前でも臆することなくお百は自ら着物を脱いで腰巻姿で立ったのだ。
先日の記事でも書いたけど今自分は明治期の日本での洋画の話に興味がある。
こんな面白い話がマンガ作品として描かれていたとは思いもしなかった。
物語は稼ぎまくったお百(といってもたかが知れているが)が病にかかってモデルができなくなったものの黒田と久米の人情で生活は見てもらうこととなる。
(人格者だなあ(創作とはいえ)黒田と久米)
その後お百は自分と同じような境遇の女たちをモデルクラブに勧誘していく。
ここの話も面白そうだ。
そしてお百につきまとっていた弥平はお百から金をもらって渡欧したもののその後の消息は誰も知らないという。
なんという面白い話を作ってくれるんだ。
むろん作者が芸大出身だからこそこうした話を思いつくのかもしれないが。
「なんでこんなに女性の裸体にこだわるんだ?」と昔は思っていたけれど女性の裸体こそが開国だったのだ。