
ネタバレします。
「花景色狐巷談」
春。
花見酒で狐に化かされたという話を聞くこと多し。
春先の水が流れ込んで大そうぬかる田の中を着物の裾を高くまくった侍が膝までもぐって右往左往しているのを「はて妙なことがあるものだ」と人々が遠目に観て集まってくる。
あまりにも立派な侍姿なので人々は声をかけきれずにいたがやがて旅の僧が声を出す。
「御武家様。狐に見入られたのではありませぬか。早く真心に返りなさい」と。
侍はきょとんとして「もう少しお許しあれ」と再び歩き出す。見物人はいよいよ狐だと大騒ぎ。
そんな中で人目を忍ぶ逢引をしていたふたりは仰天する。
男は強気だが女は恥ずかしがって身を寄せる。
しばらくすると侍は田の水の綺麗な辺りで足を洗い手拭いを出して拭きたもとから草履を出して履きこちらへと来た。
どうやら正気に戻ったようだ。
侍は「あなた方は先ほどから何を見ているのか」と聞く。
僧は「御武家様が一刻半田の中を狂い歩かれたのは狐に見入られたにちがいないと皆が見ていたのです」と答える。
これに侍が答えるに「拙者は両の足に燕瘡という悪い瘡があって医師が言うに蛭に血を吸わせるが良いということで試していたのだ」と笑ったのだった。
日の暮れるまで押し合いながら見ていた人たちはかえって狐憑きになったようだった、という。
「崖」
討ち取った首級を披露する。
その中にたいそう艶やかな首があった。
だが名が知れない。
その首級を討ったのは熊谷玄播の配下の者だった。
四方霧の海の中、騎馬で近づく武者があり馬に槍を繰り出した。
馬は武者を振るい落とし走り出したがその先が崖だったため落ちていく。
落馬した武者は喘ぎながら頼みごとをした。
首を討った後、胴体を崖下に落としてくれ、というのだ。
願いは果たされた。
首実検の中、あまりの美しさに「女武者を討ったのではあるまいな」
それを確かめるには瞼を押し開け黒目が正しく中央にあれば男、さにあらずば女の首と口伝にあるという。
大将は自らこれを確かめ「男と見ゆる」とした。
大将は夢を見た。
底知れぬ崖を上へ上へと這い上がっていく。
肩にはかの若武者の胴体を負っていた。
上りあがると飛ぶ勢いで舞い戻り首と胴体を縫い合わせようとした。
されどどうにも継ぐことがならなかった。
この夢を七日七晩見続けた。
国許に帰り生まれた最初の姫に「縫」次の若君に「継丸」と名付けたのであった。
その若君が今の殿様であると寝物語に聞いたのである。
「駆け抜ける」
この作品は今の私にとって非常に興味のあるものだった。
これまでもこうした話に出会わなかったはずはないのに自分は気づいていなかったのだ。
「勝てば官軍」という言葉は子どもの時から聞き及んでいたのにそれになんの疑問も感じてこなかった。
そういうものだと信じ切っていたからだ。
東京の(あるいは江戸の)人々にとって明治維新は江戸時代の瓦解であった。
世界が崩れ去ったのだ。
といっても街並みも人々も破壊されたのではない。
ただ一つの世界が終わり去り新しい世界が始まった。
新しい世界のさらに時間が経った時に生まれ育った者たちにとってその「瓦解」は一つの節目でしかない。
だがそれを実感していた人々は確かに存在していたのだ。
新しい世界に生まれた者たちは革命が成功した世界しか知らずそれを受容するのは当然だと思ってしまう。
しかも自分的には江戸時代「取り戻したい世界」とはとても思えないためにそんな価値観に疑問を持ったこともなかった。
だがそこを考えなければならないと思ったのが最近になってからなのだ。
むろん今でも江戸時代に戻りたいとは思わない。
というかいわゆる「鎖国時代」である江戸時代自体が恐ろしい。
鎖国時代であったために明治維新以降の日本人は無茶苦茶になったように思えてならない。
毎日勉強するのが嫌で遊び続け夏休み終了前に慌てる人に似てる。
「戦争がなかった時代」という言い方もあるがそれはコミュニケーションをとるのが嫌で引きこもり続ける人と同じだ。
とはいえ日本人は江戸時代のはじめに「引きこもり人間」になるのを決めた。
その貝を開けるための明治維新だ。
そのためにどれほどの犠牲が払われたか、知れない。
杉浦氏が描く彰義隊の悲劇もまた「引きこもり」の代償である。
言葉としては簡単だが悲しみは深く大きい。
それは仕方のないことだった。
だが若者たちの血でもあった。
時間を取り戻すことはできない。
そして代償は必ず払わねばならない。
さらに時は移りすぎていく。