ガエル記

散策

『武蔵野夫人』溝口健二/原作:大岡昇平

1951年製作「東宝

なにも知らず観始めたらついつい最後まで観終わった。

監督が溝口健二であった。

今まで一度も読もうと思ったことのなかった大岡昇平原作を読み終えた。

 

 

ネタバレします。

 

wikiによれば原作小説は当時つまり戦後間もない頃のベストセラーだったようだ。

とはいえ今ではまったく話題になることもない。

恋愛感覚が希薄になってきた昨今ではますますこの題材「不倫とその心理」を劇的に取り上げることはないのかもしれない。

自分としても今まで好んだ題材ではないのだが今回の映画そして原作はとても面白かったのだ。

なぜだろう。

今の私が「昔の日本を知りたい」という気持ちが作用して良く見えてしまっているのかもしれないが本作はその欲求に応えてくれた一作品に思える。

 

原作小説はラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』を下敷きにしているという。

その試み自体に微笑んでしまうのだが戦時中欧米文化を禁じられていた抑圧が一気に噴出してしまったという感じなのだろうか。

大岡昇平と言えば(読んではいないので申し訳ないが)『野火』(映画は観た)などの戦記ものが有名だが本人はフランス文学研究者翻訳家と書かれていて本来ならこちらで名を残したかったのではなかろうか。

本作映画内でもスタンダール著書をもとに恋愛論が繰り広げられるのが微笑ましい。

 

さて本作はそのようにしてフランス語教師である夫とその妻、そしてその友人夫婦とそこに入り込んでくる復員の若者によって自由恋愛の様が描かれる。

 

道子の夫・秋山は専門でもあるフランス文学かぶれで「一夫一婦制」を批判し自由な恋愛をしたいと思っているが例によって妻に対してはその思想がスムーズには働かない。

この作品では道子を「古風な女」と馬鹿にしている男女が結局自由ではなく意志薄弱であり、道子だけが自分の意志を貫いていく女性だとして描かれている。

 

原作で読めばさらに道子の複雑な心理がわかる。

原作には映画ではなかった道子の年下の従弟に対する恋愛感情が細やかに記される。明確に道子は夫ではない若者・ツトムに思慕の念を抱き接吻をするがそれ以上の関係にはなりたくない、と望む。

その先に自死を選ぶのは現在の価値観では無意味に馬鹿馬鹿しく思えてしまうが「昔は自死が最大の武器だったのだ」と納得するしかない。

現在の人間にはすぐに忘れ去られてしまうだけにしか思えないがかつて「自死することはその人の心に残る手段」だったのだろう。

そのようにして武蔵野夫人は死ぬことで夫に反省を促したが、武蔵野の風景が消滅するとともにそんな人間の心も消え去ってしまったのだろう。

 

しかしそれでよかったのではないか、と現在に生きる私は思う。

自死が最大の武器であるのはどうしても間違いだとしか思えない。

そういう価値観になってしまったのだ。

そしてまたその価値観もまた変化するかもしれないがそれはまたその時のことだ。

それはそれとして武蔵野夫人はきっぱりと気高く生きて死んだ。

スタンダールかぶれの夫は泣いて生きていくしかない。

ツトムくんの心から武蔵野夫人が消えることはない。

男たちは過去を想いながら生きて行くのだ。

 

 

この映画の中に「この手紙をお読みになるころには・・・」があった。

この表現が1951年にはあった。