ガエル記

散策

『八つ墓村』野村芳太郎/原作:横溝正史 その3

 

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今朝の記事で書いた疑問符

「元に戻ってしまった。

そこが私のひっかかりであり今回理解できるのではと思っていたのだがどうしても山﨑努の狂気が腑に落ちないのだ。

それ以外は確かに本作面白いと思う」

の答えを今日一日考えていた。

そして出た答えを書いてみます。

 

ネタバレします。

 

 

そう私は山﨑努演じる田治見要蔵の狂気が理解できなかった。

私にも元ネタと言われる『津山三十人殺し』は理解できる。

なのにそこから発想したといわれる田治見要蔵の狂気は意味不明だ。

これは横溝正史、さすがに時代的に無理だったのか。脚本家もその先を描けなかったのか、と私は侮ってしまった。

違うのだ。

「田治見要蔵の狂気は理解できるようなものではないし説明できるような理路整然としたものなどではないからだ」

その狂気に名前をつけるとしたらそれは「父権」もしくは「家父長制度」と呼ばれるものなのだ。

昔の親父の怒りに意味などない。

突如怒り出し周囲の者は戸惑い怯え震え上がるしかないのだ。

昔の、と書いたが今でもそのような親父はいるのだろう。

だからいつまで経っても『八つ墓村』は必要とされてしまうのだ。

 

私は本作『八つ墓村』に理詰めの解釈を求めてしまったのだがそんなものはそもそもなかったのだ。

ここにあるのは周囲の者にはどうしようもない「日本にはびこる親父の怒り」だった。

 

日本人は「親父」が大嫌いなのだ。

大嫌いだから観たくないはずだがそれがなぜかコンテンツとしては観たくなってしまうのだ。

心から憎んでいても真逆の「良いお父さん」などは見たくない。

芯から腐った親父を観たいのである。

なので日本では「良いお父さん」が描かれた映画マンガなどは嫌われる。

それはもう「父親ではない」からだ。

日本人が観たいのは「むかつく親父」の姿なのだ。

 

不思議である。

なぜ最も嫌なものを観たいのだろうか。

しかし本作はその最も嫌なものを描き出した。

自分が気に入った女性は襲ってものにし、気に入らなくなると一転、殴る蹴るの暴行をし我が子ではないと勘ぐり(実際そうではあったのだが)焼け火箸を突き付けるという最低のくず野郎だ。

さらにその女性が逃げ出したことで狂気となり村人を次々と殺していく。

この行動に深い意味などない。

あるのは他人を脅かすそそり立った自尊心なのだ。

 

横溝正史はこの家父長制に君臨する男性像を描き続けている。

『本陣殺人事件』も『犬神家の一族』もその思考が行動を起こさせる。

 

さてここまでにしてまた明日の朝に。