ガエル記

散策

『逆襲のシャア』再鑑賞『閃光のハサウェイ』のために

「日本近代史」を続行中だが、Xであまりに『ハサウェイ』騒いでいるのでたまらず『ハサウェイⅠ』を鑑賞後続けて『逆襲のシャア』観てしまった。

 

 

ネタバレします。

 

というのはここらへんはもういらないのか。

もうネタバレされすぎてるか。

 

『ハサウェイ』三部作を観るなら絶対『逆シャア』は観ておくべきだろうしできるなら『ゼータガンダム』も観た方が良い。

『ゼータ』全鑑賞はさすがに大変なのでとりあえず『逆シャア』再鑑賞する。

というか『閃光のハサウェイ』第一部を以前観た時まったくわからなくて困ったのに今回再鑑賞したらなぜかするすると理解できたので(どうしてだろう)『逆シャア』まで観てしまったのだ。

 

とにかく『ガンダム』はわかりづらいのだけど一度その世界に入ることができるとそこからもう逃れられなくなってしまうのだ。

私としてはこの世界に引きずり込まれるのは現在本望ではないのでこの二作品だけで離脱したい。

 

今回観ていて感じたのはこれは『日出処の天子』なのだなということだった。

という台詞を私はあちこちで使いまくっている。

つまりバビル二世とヨミの時にも感じたのだが超能力を持つ「二人の男」が登場した時、その二人は対立する存在であり結びつくことはない、ということが物語を産むのだ。

日出処の天子』ではその二人の男を同性愛関係に置くことで考えさせた。

とはいえこの関係性は一方的なものとして想定されたのだが。

超能力者である厩戸皇子はその力を増幅する力を持つ毛人に同性愛関係性を求め「二人の力が合わさればどんなことでもできるのだ」と説く。

しかし「そんな力は持つべきではないと天が示されたのではないか」と毛人は答えて関係性を拒絶する。

逆シャア』に置き換えてみるとそれはよりわかりやすくなる。

というか本作ではシャアとアムロは関係性を持ってしまったことで「どんなことでも」してしまったのではないか。

ありていに言えばこの作品でシャアとアムロは「寝てしまった」のだろう。

それはシャアがナナイに向かって「男同士の間に入るな」と感情をむき出しにしてしまったことでもわかる。

常に女たらしであったシャアの仮面が外れてしまったのだ。

 

むろんそれは肉体的な性交ではないのだがそれ以上のものを私たちは観てしまった。

毛人が「そんな力を持ってはならない」と恐れた力をシャアとアムロは持ってしまったのだ。

その代償は彼らの死だった。

 

それだけでなく他の者たちも。

 

 

絶対許せないんだよ、シャア。