ガエル記

散策

『顔』大曾根辰夫/原作:松本清張

1957年「松竹」

不思議な映画だった。

現在ここまで奇妙な映画を作るのは難しいのではないか。

 

 

ネタバレします。

 

 

田舎でも特に貧しい家の生まれ育ちだったというヒロイン水原秋子は女ひとりで東京に出てファッションモデルの夢をかなえつつある。

そんな時に列車の中で付き合っていた男に絡まれ思いがけず男を殺してしまうことになってしまう。

(はっきりいってこれは事故だと思うんだけど)

さらに偶然その男ともめている様をある男に目撃された。

 

秋子はそれからもモデルとしての道を進みついにトップとなっていくが警察の捜査の手が伸びてくる。

目撃した男はなぜか秋子を警察には訴えなかったが秋子の恋人にばらしてしまう。

恋人は秋子に失望して去っていく。

恋人にも見捨てられた秋子の前に警察が立ちはだかった。

 

なんだろう。

つまり殺人も犯していない女を男たちがよってたかって苛め抜いていくという映画にしか見えないのだ。

そういうつもり?なのか?

まあ、この映画が清張原作にもかかわらず『張り込み』と違って名作として挙がってないのだから誰も評価はしていないのだろうと思う。

 

それにしてもあまりにも現在観るのが難しいのではなかろうか。

なかなか理解できなくて「どういうことなのだろう」と困惑した。

しかしこの筋書きと心理描写にその時代では納得ができたのだろうか。

女性たちはわかるのだ。

田舎出のヒロインが頑張りすぎるのもそれまでのトップモデの言動も、たったひとりのヒロインの親友である年かさの女性の情愛だけがこの映画の救いである。

 

ところが登場する男性たちがそろいもそろって屑ばかりだ。

この映画を観た人はこの時代の日本男性は屑しかいなかったのか、と思ってしまう。

主要メンバーだけではなく脇役の隅々まで屑なのだ。

こんなことってあるのか。

すべての男がヒロインにいやらしい視線と意地の悪い言動をするのだ。

よりを戻そうとして暴力を振るう男。

嫌がっているのに接触を強要する男。

恋人だという男も突然現れた見知らぬ男の告げ口ですっかり心変わりして暴言を吐く。

刑事もその他の男たちも誰一人まともな人間がいない。

 

ディストピアSFを観ているようだった。

いやどんなディストピアでもここまで酷い世界を作ることは無理なのではないか。

映画というのは現実にはないような理想的なファンタジーを作り出してしまうものだが作っている者たちが「どういう世界が理想世界なのか」を理解できてなければファンタジーそのものがディストピアになってしまうのだということを教えてくれる。

 

松本清張は素晴らしい作家だがその作品が改変された時、その歪みが見えてくるのだ。

それを教えてくれるという意味で有意義な映画であった。